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ザ・ビーチ

雑記
03 /18 2018


数年前に流行った「シャイニーゲイ」ではないけれど、90年代には「ゲイはクールでスタイリッシュな都市生活者」みたいなイメージはあった。
クリエイターとかアパレルとか、とにかく創造的でオシャレで高収入な仕事をして、夜はバーやクラブで遊んで、週末や連休には国内外を旅行する。
前前回の記事「二十歳の微熱」で二十歳前のわたしが夢描いていたのは、そういうゲイライフだった。
よくもまあ平成不況まっただ中の90年代末期~00年代初頭にそんな夢物語というか、バブリーな憧れを抱いたものだと思う。
実際のところ、90年代の不況の最中でも、あるいはリーマンショック後の世界でも、そういうゲイライフおくってるリッチなゲイはいると思うのです。
でも自分の身の程を考えたら、たいした努力もしてないのに、そんなリッチでスタイリッシュな生活をおくれるわけもない。
まあそんな風に「都会に出なきゃ」っていう焦りがあったのも、地元でゲイライフなんてものが想像できなかったからではあるのだけど。

今回の記事「ザ・ビーチ」はわたしがそんな夢見る夢子ちゃんだった2000年に公開された映画だ。
レオナルド・ディカプリオが「タイタニック」の次に出演した映画で、「タイタニック」ほどではなかったけれどヒットした記憶がある。
非常に見たい映画ではあったけど、見ないうちに劇場公開が終わってしまい、この映画をわたしが実際に見たのは2015年頃だった。
レンタルビデオを借りる際も、またいつか別の日に借りようと思って何となく先送りしていた。
高校生の頃から15年の時を経て見た感想は、「面白くていい映画だけど、大ヒットする作品ではないよなあ」ってことで、「タイタニック」みたいな娯楽作品とはかなり毛色が違う。
多分この作品でディカプリオ自身も「タイタニック」のイメージ払拭しようとしてたんだろうなぁとか、後の「ギャングオブニューヨーク」とか「アビエイター」みたいな作品傾向に繋がっていったのかなぁ‥‥とか色々思うけれど、まあそういう下手な映画評論家気取りの解説は、散々あちこちで語られているだろうからやめておく。
ちなみに映画で使われたオールセインツの「Pure Shores」。当時めっちゃ好きだったなぁ。

映画の話にそれてしまったが、夢見る夢子ちゃんだった若ゲイの頃、オシャレな都市生活と同じく憧れてたのが、「パートナーと過ごす南の島のリゾート」で、それこそ映画「ザ・ビーチ」に出てくるような、南の島でパートナーと熱いひとときを過ごしてみたいなんてことも思っていた。
実際のところ長期休暇を取って南の島でバカンスするなんて、簡単なことじゃないんだけどね。
沖縄ぐらいだったら何とか行けそうではあるけれど、現在ブクブク太った体でビーチにくり出せるかっていうと、それもまた難しい。
あと、二十歳頃と30代半ばでは興味の対象も異なるから、ビーチよりは観光を楽しみたい気もする。
でも青い海と白い砂浜、やっぱり憧れちゃうよね。

わたしほどではないけれど、たつやもつき合うにあたってこんなデートしたい、あんなデートしたいという憧れはあったらしい。
が、いきなり「寺にお花を見に行こう」と誘われた時は「‥‥‥‥」という心境だったそうだ。
まあ23歳の男の子をいきなり寺に誘うなんざ、センスのいい年上ゲイがやることじゃなかった‥‥と今では思う。
4月からは職場の環境も色々変わりそうなのだけど、落ち着いたらとびきりオシャレなデートプラン立てて、キラキラとはいかないまでもキラッと光るゲイライフを味あわせてあげたい‥‥などと思う今日この頃だ。

麗しき梅花

雑記
03 /14 2018

桜の花もよいですが、わたしは梅の花がとても好き。

厳しい冬を乗り越えて、鮮やかに咲くのがいい。

桜の花が優雅で艶やかだとするなら、梅の花は粋で艶っぽい感じです。

どちらも「艷」ですが、個性は少し違います。

二十歳の微熱

雑記
03 /12 2018

今月に入って以降、花粉症か黄砂か、はたまたPM2.5の影響かわからないのだけど、喉が痛くて鼻づまりやくしゃみに苦しんでいた。

その後37.6℃まで熱があがったので、正体はもしかしたら風邪だったのかもしれない。

葛根湯を飲んで一晩汗をかいたら熱は下がったので、どうやらインフルではなかったようだ。

とはいえ体は案外弱っていたらしくて、今はあちこちにヘルペスが出て辛い。

時々ヘルペスが出ることはあるのだけど、いつもは鼻の下や上唇にしか出ない。

それが今回は目の周りや鼻筋、肩などに出ている。

特に辛いのが目の周りで、目が開きにくいのも困るし、涙は出るし、目やにが酷いし‥‥で気分も滅入る。

前回目の周囲にヘルペスが出たのは15年前の二十歳の時で、時期もちょうど今と同じ3月だった。

地元を離れて四国の大学に通っている頃だった。

わたしは夏休みと正月に実家に帰ることはあっても、春休みは帰らなくて、学生の頃唯一春休みに帰省したのが2回生の春休みだった。

とはいえ実家に帰った早々、目の周囲にヘルペスが出て結局病院通いがメインの淋しい帰省だったのだけれど。

実をいうと、その頃つき合っていた男とは関係が煮詰まりつつあったというか、情熱は冷えて惰性でつき合ってる部分もあって、かすかに「新たな出会いを‥‥」という気持ちがなかったわけでもない。

というより、その彼のことが好きだったから、というよりは「恋愛がしたい」「(誰でもいいから)彼氏が欲しい」という動機でつき合った関係だったから、どこかで断ち切りたい思いがあった。

結局その後3年も関係が続いてしまったのだけれど、情熱はなくとも情はそれなりにあったのだと思う。

(今つき合ってる彼氏が見てるブログにこんなこと書いて、正直アカンと思う。ただ若い頃のダメな恋や嫌な自分、苦い経験があってこそ今の自分がある。そして30越えてから本当の恋愛を知ったという、わたしの想いも伝えたいのだ。)

というわけで、二十歳の春休みに密かに地元で新たな出会いを‥‥という期待があったのだけれど、片目が腫れて目やにがこびりついている状況でアバンチュールが出来るはずもなく、よからぬ思いをとげることは叶わなかった。

ばちがあたった‥‥なんてことも考えたりしたのだけど、実家にいて祖母とゆったり過ごせたことは、むしろ幸せなことだったと思う。

認知症がありつつも春先には穏やかだった祖母が、この年の夏にはせん妄などの症状が見られるようになり、混乱して激昂することもあった。

本格的に我が家は介護生活に入ることになった。

翌年の冬ごろにはかなり落ち着いて、大変な時期は幸い長くはなかった。

理由は祖母のことだけではなかったのだけれど、大学卒業したら実家に帰ることを意識するようになったのはこの頃だった。

漠然と都会暮らしに憧れたり、(決して真剣ではない)見果てぬ夢を見るのではなく、地に足をつけて自分の人生を考え始めたのが二十歳の春休みだった。

(まあ残念ながらその後何年も大人になりきれず、失敗や挫折も経験することになるのだけど。)

思い出は過去の自分と出会う旅。それは未来へと続く旅でもある。

コートを脱いで

雑記
02 /26 2018

坂道の上におぼろな春の月を見たら

君の手をとり駆け出そう

コートを脱いで

坂道の上で

君を抱きしめたい

懐かしのファッション

雑記
02 /17 2018
Eternal Power of a woman


数年前から言われていたようだけど、若い女性にロングブーツが不人気らしい。
履きにくい、保管の場所に困るとか様々な理由があるけれど、ロングスカートやスカンツなど最近主流のボトムスに合わないのも一因のようだ。
確かにマイクロミニにロングブーツの女性は見かけない。
90年代はマイクロミニにロングブーツ、真冬はフルレングスのロングコートのお姉さんたちがたくさんいた。
わたしより少し上の年代の人たちで、今40歳前後の人たちだ。
当時は大人っぽくてカッコいいスタイルに思えたけど、若い女性には古臭いファッションに見えるのだろう。

春はあけぼの

雑記
02 /16 2018

近年中国からの観光客がたくさん訪れるようになったこともあり、何となく日本人にも馴染みのある言葉になりつつある「春節(旧暦の正月)」。

2018年は今日2月16日がそれにあたる。

というわけでみなさん、あけましておめでとう!

‥‥って既に一ヶ月半も前にあけましておめでとう言ってるのに、また言うのもどうなのよ?って言われそうだけど。

旧暦では一月二月三月が「春」だから、旧暦の季節感だと今日から季節は春だ。

まさしく春のスタートだから「春節」という言葉が相応しい。

日本でもお正月のことを「新春」っていうし、年賀状には「迎春」等と書いたりするけれど、真冬の寒い盛りに「春」なんて変だなぁと子どもの頃に思った人はたくさんいると思う。

そういう疑問を大人にぶつけてみると、やれ旧暦が~とか、昔は一月から春だったとか教えてもらって理屈では理解できても、旧暦の具体的なカレンダーがわからないとイメージではつかみにくい。

2018年の場合2月18日が旧暦1月1日で、5月14日が旧暦の3月29日にあたるので2月中旬から5月中旬までが「春」なわけだ。

古典や和歌、俳句等を読むときは昔の季節感を理解することが大切といわれる。

気候などはその年によって違うから一概にいえないし、日本列島も北海道と沖縄では季節感も違うのだけれど、奈良や京都、あるいは江戸の季節感でいうなら、ようやく雪もふりやみ、風にほんのりと暖かさを感じる頃から、日射しがきつくなり少し暑さも感じられるような頃までが「春」といったところだろうか。

古文でも、全てが中央にいる人によって書かれたものではなくて、例えば大伴家持の、「新しき年の始めの初春の今日ふる雪のいや重け吉事」という歌は因幡の国(鳥取県)に赴任してた頃の歌なので、雪深い鳥取の情景が描かれている。

松尾芭蕉も全国を旅していたから、もしかしたらその土地土地の季節感を表現していたりするのかもしれない。

具体的な情景を思い浮かべながら古文の季節感を想像すると、少し違った味わいがあるように思われる。

古文で四季について書かれたものというと、清少納言の「枕草子」を思い浮かべる人も多いだろう。

有名な「春はあけぼの」の一節も、旧暦の季節感を想像すると奥行きが感じられる。

単純に春の明け方の美しさだけではなくて、寒さがやわらぎつつある季節の、太陽が昇る暖かな情景に、春のよろこびを感じているようにも思われる。

「寒さもやわらいできたでしょう?寝床から出て東の空をごらんなさい。夜明けの景色がとても美しいわよ」。

そんな思いを読者に伝えるべく、「春はあけぼの」の一節を書いたのかもしれない。

感性も感覚も、かなり鋭いものがあった人なのだろう。

そんな清少納言には足もとにもおよばないのだけど、今日から始まる春を感じたい今日この頃だ。

明るい一年に‥‥

雑記
01 /05 2018

時期でいうと寒中見舞いの時期でしょうか?

2018年あけましておめでとうございます。

どんどん更新がまれになるこのブログではありますが、日常の様々な気づきや思うことを綴る場所として、今後も残していきたいと思います。

平成もとうとう30年ですが、それもあと約一年半ですね。

このブログを始めた年に生まれた子が、4月には中学一年です。

月日の経つのに驚かされます‥‥って、最近こんなことばかり言ってる気がするけど。笑

今年はとにかく明るいいい一年にしたい!

優しさや希望が、多くの人に届くようなそんな一年になれば、と思います。

何はともあれ、今年もどうぞよろしくお願いいたします!

街を歩こう

雑記
12 /20 2017

このブログを始めてかれこれ12年になるのだけど、開始当初22歳だったわたしも現在35歳になった。

開始当初からは仕事も私生活にもかなりの変遷かあり、当然心境やら考え方も大きく変わっていて、過去に書いた記事を読むと今の自分と考え方が異なっていることはザラにある。

なので、仮に過去記事を全て読むとあれこれ矛盾してるとこもあるだろうけど、よほど酷いことを書いていない限りはその記事は残している。

どのように思考が変化してきたかってことが、後から自分を振り返る際に大切な記録になると思うからだ。

と、まあこんな堅苦しい前置きをしつつ、今回の内容は極めて日常的なことなんだけどね。

実は今月の初め頃、コンタクトレンズを作りに行った眼科で白内障の診断を受けた。

35歳という年齢は、そりゃ二十歳に比べりゃ年食ってるのだけれど、白内障にかかるにはあまりにも若すぎる!と思ったのだけど、アトピー持ちの人は若くしてなってしまう人もいるらしい。

白内障は手術による治療も可能だし、悲嘆していたわけでもないのだけれど、やはりそれなりにはショックではあった。

車で来ていたために瞳孔を開いての検査が出来ないため、次の診察の予約をしてその日はクリニックを後にした。

次回はバスかタクシーで来てくださいとのことだった。

わたし自身はそれほどの衝撃でもなく、また両親もひどく驚いているという感じでもなかったのだが、一番動揺していたのは彼氏のたつやだった。

診察が終わったあとに連絡したら、会社を早引きして迎えに来るとまで言ってくれた。

そこまでしなくても大丈夫だよ、と笑いながら言ったら、想像以上にわたしが落ち着いていて拍子抜けしたらしい。

27歳の若者にとっては、白内障はあまり身近ではなかったのだろう。

我ながら、いつも心配をかけているなと反省した。

次の診察は、ちょうど自分も休みだから付き添うよと言ってくれた。

こういうところが、本当に心強い。

当日はそれぞれバスで来て待ち合わせることにした。

診察とその付き添いとはいえ、待ち合わせのデートっていうのが少し新鮮に思えた。

同じ市内に住んでいるとはいえ、距離でいうと割と離れているのでデートは基本的に車で迎えに行くことがほとんどだ。

おそらくだけれど、地方に住んでる若者は基本的に車でデートが多いと思う。

必然的に行く場所も郊外の店や飲食店が多くなる。

「若者の車離れ」なんていうのは都会で起きている現象であり、地方はむしろ車依存だという記事を読んだことがある。

少なくともわたしの地元では、車依存の方が実態に近い気がする。

街で待ち合わせるデートをするのは、学生ぐらいなものだと思う。

と、まあ話は脱線したのだが、ようは学生みたいな街中で待ち合わせデートっていうのが新鮮で何となく楽しく思えたのだ。

まあデートというよりは診察と付き添いなのだけれど。病気のことを考えたら受かれている場合なんかではなかったのだけれど。

当日は病院の前で待ち合わせ、診察中は彼は待合室で待っていた。

結果からいうと、白内障は確実だった。

実は白内障の他にいくつかの疾患の可能性も指摘されていたのだが、それはないとのことだった。

白内障の手術に関しては、今後状況を見ながら考えましょうとのことだった。

結果を伝えるとたつやも安心していた。

お昼過ぎなので、近くのカフェで食事をとることにした。

雪もちらつく寒い日、あたたかい料理はこころにしみた。

デートで街中のレストランやカフェに行くこともあるのだけれど、やはり車で行くことが多いから、有料駐車場に停めてたりすると、やはり時間は気にしないといけない。

その点車ではなく、バスと徒歩だと気持ちものんびり出来る。

食事を終えてから少しのんびりと街を歩いた。

不思議なものだけれど、割と見慣れている街並みなのにどこか違って見えるもので、旅行にでも来ているかのような感覚があった。

殺風景な街だと思っていたけれど、ゆっくり歩くとそれなりに味わいがあり、初冬の景色とマッチして少しだけおしゃれにも思えた。

何だか学生カップルみたいだねと、たつやに言うと顔をくしゃっとさせて笑っていた。

35歳と27歳の男二人が、学生カップルなんてほんの少し滑稽にも思えたけど、この年齢になっても少しのことで新鮮な気分が味わえる。

いいことじゃないか。

帰り際、それぞれの方向に向かってバスに乗って別れることになったのだけど、それもまた何だか新鮮というか、いつもとはひと味違う切ない気分にもなった。

かれこれ4年つき合っているのだけど、こんな風に新鮮な楽しみがある。

よく、マンネリ化しない?と訊かれることもあるのだが、不思議とたつやにはそれを感じることはない。

ほんの少しデート方法を変えてみるだけで、ちょっとした新鮮な気分も味わえる。

もっとも、そんなことを考えているのはわたしだけで、たつやの方は心配事が年ごとに増えてハラハラしているのだろうけど。

たまには元教師らしく

シリアス
07 /29 2017

少し前の記事になるが、以下の記事を引用したい。


安倍政権のLGBT差別教育は相変わらず...「異性への関心」指導要領の改訂を拒否、文科相は"LGBTは科学的に認められてない"


リテラ2017年5月6日 18時00分


 国内最大の性的マイノリティへの理解を深めるためのイベント「東京レインボープライド2017」が、今年も東京・代々木公園などで開催されている。このイベントは、〈性的指向や性自認のいかんにかかわらず、差別や偏見にさらされることなく、より自分らしく、各個人が幸せを追求していくことができる社会の実現を目指す〉ものだが、一方、安倍政権の政治家たちの間ではいまだ差別や偏見が蔓延っている。



 それを象徴するのが、今年改訂された教育指導要領だ。これまでの小学校の学習指導要領では、思春期の変化として〈異性への関心が芽生える〉ことが〈だれにでも起こる,大人の体に近づく現象〉として理解できるようにすると記述。中学校学習指導要領(保健体育)でも〈異性への関心が高まったりする〉と書かれていた。そこで、今回の改訂にあたって、この記述をなくして性的マイノリティについて盛り込むことを求めるパブリックコメントが数多く寄せられていた。



 だが、文科省は「LGBTを指導内容として扱うのは、保護者や国民の理解などを考慮すると難しい」として却下。新学習指導要領でもこうした記述が残ってしまったのだ。



 2017年度の高校教科書の一部では、はじめて「LGBT」という言葉が登場したが、このように小学校から「異性愛が普通」と教えていては、多様な性への理解を深めることは難しい。文科省は昨年、性的マイノリティである児童・生徒への教職員の対応を手引きとして発行したが、まずは授業内で多様な性のかたちがあることを周知することのほうが先決だろう。



 しかも、この文科省の判断に輪をかけて酷いのが、担当大臣である松野博一文科相の認識だ。4月24日に開かれた衆院決算行政監視委員会では、民進党の西村智奈美議員がこの学習指導要領改訂の問題を取り上げ、学習指導要領にLGBTに関する内容を盛り込むことを求めたのだが、このときの松野文科相の答弁は、唖然とさせられるものだった。



「LGBTに対する科学的な知見が確立していないということがございます。それがなかなか授業において先生方が合理的な説明の元に進められない、問題があるかと思います」



 LGBTの科学的知見が確立していないから授業では取り上げるのは問題がある──。この答弁に対して、西村議員は「性的指向、性自認にかかる悩みをもっている子どもたちは、そうではない子どもたちに比べると自殺のリスクが6倍高いとも言われている。そうしたなかでほんとうに科学的知見が確立していないということが学校でこのことに言及しない理由になりえるのか」と反論したが、まさにその通りだろう。



 たとえば同性愛の場合、先天的なものなのか後天的なものなのかという研究においても、科学的にははっきりとした答えはまだない状態だ。しかし、そうした「科学的知見」は、性的マイノリティの権利を認める上で必要なものではない。性的指向や性自認について学び、性にはさまざまなかたちがあることを知る。そうして多様性を認めることができる教育が求められているはずだ。



 だが、松野文科相は、教育現場において性的マイノリティの理解を深めることの重要性など考えていないのだろう。



 だいたい「科学的知見が確立されていない」というなら、文科省がつくった小学校高学年用の道徳教材「私たちの道徳」に、まったく科学的根拠や史料的裏付けのない「江戸しぐさ」を載せたのはどう説明するのか。



 結局、安倍政権は平等や人権、多様性などの教育を否定して、戦前的価値観を復活したいだけなのである。



 実際、松野文科相は教育勅語については「教材として用いることは問題としない」と発言している。教育勅語はそもそも家父長制、男尊女卑を前提にしたもので、男は男、女は女という性別によって役割が固定されている。当然、性的マイノリティは排除された世界のものであって、こんなシロモノをいま「問題なし」と言うのである。松野文科相は日本会議国会議員懇談会のメンバーだが、「LGBTについて授業でふれることはアウト、教育勅語は無論OK」という極右的価値観でものをいっているにすぎない。



 いや、これは松野文科相だけではなく、安倍政権を覆う認識だ。昨年の参院選の公約で〈社会全体が多様性を受け入れていく環境を目指します〉などと表向きはLGBTフレンドリーを装ったが、内実はまったく違う。



 事実、現行憲法では家族のなかでの個人の尊重が謳われている24条を、自民党の憲法改正草案では〈家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない〉としている。ここで自民党がいう「家族」とは夫がいて妻がいて子どもがいるという、何かと極右が口にする「伝統的な家族」であり、「個人よりも家族」という考え方といい、真っ向から多様性を否定する内容だ。



 そうした考えを裏付けるように、2015年3月に開かれた自民党の「家族の絆を守る特命委員会」の会合では、渋谷区の同性パートナーシップ条例に対して疑義が呈されただけでなく、複数の議員が同性愛について「考えるだけでぞっとする」などと発言し、しかも場内には笑いが起きたという(朝日新聞2016年11月20日付)。



 昨年、「レインボープライド」の会場を視察に訪れた稲田朋美防衛相(当時は自民党政調会長)は、「私自身は男らしさとか女らしさということを言ったことは今まで一度もない」と嘯いたが、本サイトではいかに稲田氏が性別による押し付けを肯定する発言をし、さらには"男女は支配者/被支配者の関係であるべき""異性愛を中心とする法律婚を守ることが重要で、同性婚は法的に認めてはならない"とする主張を行ってきたかを紹介した。



 今年も、このイベントが性の多様性について多くの人が理解を深めるきっかけになってほしいと願うが、同時に、そうした動きに対して足を引っ張るどころか、性にもとづく差別や偏見を助長し、個人の権利を認めない安倍政権の実態にもNOと言っておきたい。

(編集部)   


「一体いつになったら、自然と異性に惹かれるようになるんだろうか?」

10代の頃、既に同性に強い性的な感心と、淡い恋愛感情を抱きつつ、いつかは異性を愛するようになるのだと、漠然と思っていた部分はあった。

ネットの普及もまだで、社会全体の同性愛に対する理解も不十分な時代だった。

性教育の必要性が語られていて、小中学校でも性教育の授業はあったのだけれど、「異性に対して性的に惹かれるのは自然なこと」という言葉は、本の中にもあったし、教師の口からも聞かれた。

「同性に惹かれたり、性に関心がないのも自然なこと」という言葉に巡りあうことはなかった。

20年以上経った今となっては、まあ時代のせいだよなぁとは思える。

わたし自身はどちらかというとあっけらかんとした性格だったこともあって、同世代のゲイに比べたらそれほど深刻に悩んでいたわけでもなさそうなのだが、それでも「自分は何かヤバい病気なんじゃないか」という不安も少なからず感じていた。

若い世代のLGBTsと実際に話をしたり、ブログやTwitterなどを見ると、さすがにわたしの世代よりは情報に恵まれている。

インターネットやテレビの情報だけでなく、図書館などである程度きちんと解説した本に出会った人もいる。

それでも、学校で教えてもらったという話はあまり聞かない。

先進的な学校や先生方が触れていた例はたくさんあって、アクティビスト団体が学校向けに講演会も行っている。

身近な例だと、地元のLGBTsサークルも数年前から、学校で生徒さんたちや教職員に向けて講演会や研修も行っている。

おそらくは全国的にじわじわと広がりつつある流れなのだろうけれど、ただ全体で見ると、残念ながらまだ「一部」というレベルではないかと思う。

かなり前のことになるが、わたし自身の経験も書いておきたい。

2005年に高校の常勤講師をしていた頃、配属先の高校がMtFトランスジェンダーの講師を招いて性教育講演会をしていることかあった。

あくまで性教育講演会であり、セクシュアリティに関する内容でもなく、「10代の性」について男女問わず抱えるであろう悩みや困りごとに関する内容だった。

ただ、講師の方がセクシュアリティに踏み込んだ話をしたことについて、教職員はおろか生徒たちからも反発があった。

言葉は悪いのだけど、何の予備知識もない生徒たちからしたら「いきなり変態が学校に来て、下ネタを話に来た」という認識だったのだろう。

性自認や性指向といった話をすることは、これほどまでに難しいのかと23歳の駆け出し教員だったわたしは思い知らされることになった。

さすがに当時からしたら10年以上経っているし、特に数年前からのLGBTブームは様々な問題をはらみつつも、世間の認識に大きな影響を与えていると思う。

社会は確実に変化してきているだろう。というより、そう願わずにはいられない。

ただ、そういう人々の取り組みや積み重ねも、激しいバックラッシュが起きてしまうと、一気に叩き潰されてしまう。

今回、指導要領に反映されず、「異性に惹かれるのは自然なこと」と書かれてしまったことは、やはり痛恨の極みであると感じる。

次回の改訂には必ず盛り込まれるようにする運動も大切だろうし、また、今の指導要領で学ぶ子どもたち、2020年以降の指導要領で学ぶ子どもたちにどう伝えていくかも課題になる。

最後に学校現場を経験したわたしの個人的な感想なのだが、仮に次回の改訂で多様な性について指導要領に盛り込まれ、2030年代から施行されたとしても、それがゴールではないと思う。

教職員に対して理解を深め、意識の変革を求めるのはかなり難しいことだからだ。

これは教育現場に限らず、おそらくはどの業界にもいえることなのだろうが、基本的に変化を嫌い恐れ、慣例的に行われてきたことを変えることに抵抗を示す人は多い。

これまでいくつかの仕事を経験してきたが、教師は特にその傾向が強いように感じられる。

年配の先生方に限らず、若い先生方も、「自分たちが受けてきた教育」を子どもたちにすることがよいことだと信じて疑わない人が少なくない。

いざ指導要領が変わっても、現場で軽んじられてしまったらどうしようもない。

課題は山積みだ。

でも、「少しでも次の世代にとって生きやすい世の中になるように」っていう気持ちだけは保ちつづけたいよね。

何も変わらない世の中なんて、面白くないから。

若者たちは出会いたい

雑記
07 /27 2017

もう10年以上前のことだけれど、「ゲイの世界は洋服や家電製品を選ぶように人間関係も作られていく」と言った人がいた。

当時わたしは20代前半で、長くつき合ってきた彼氏と別れた直後だった。

周囲にゲイの友達もいなくて、30歳の彼が言うことの真意がよくつかめなかった。

その後mixiやらメンミクやらでゲイの友達(イロありなし問わず)作りをしていき、前の彼氏とのつき合いや別れを経験し、30も手前になる頃には彼の言葉が身にしみて理解出来るようになった。

初対面からの、値踏みのしあい。

「友達募集」といいつつ、容姿が好みのタイプとしか会わない。

最初にリアル(SNSで繋がっていた相手と実際に会うこと)するときは、お互いの容姿やスペックなど、カッコよさを値踏みしあい、品定めしあい、仲良くなったら得か損かを勘定にかける。

そしてどうしても頭の片隅に、色恋に発展するかどうかを考えてしまう。

恋人にせよ、友達にせよ、そういう風に人間関係が選ばれ、築かれていく。

掲示板やSNSがカタログなら、リアルで会うことはショールーム。

まさしく洋服や家電製品のように人が選ばれ、いらないものは切り捨てられていく。

みんなそうだから、ある程度お互いさまではあるのだけど、人気者とそうでない人は周囲にいる人たちの数が違うし、おのずとカーストが形成されてしまう。

そういう独特のいやらしさや残酷さを感じながらも、自分自身もついついそうやって人間関係を選択してきた。

「ああ、ゲイの世界って‥‥」

30手前になった頃、わたしもそんな風に思うようになった。

冒頭のゲイの人が言っていたのと、同じ年齢になっていた。

前の彼氏と別れて以降、「SNSと掲示板」以外の手段で友達関係を作るようになったり、イベントごとにも参加するようになって、考えも変わっていった。

優しい人にもたくさん出会うことが出来たし。むしろ人情に厚い部分もある。

ただ、若い子を見たりすると「あー値踏みしあってんな」と思うことも多い。

そりゃそうだよね。みんな「一に出会い、二に出会い」。

とにかく出会いを何よりも欲しているのだから。

色恋も大事だけど、みんなゲイの人間関係が欲しくて仕方ない。

だから出会いたい。

80年代前半の生まれのわたしと、90年代半ば生まれの若者では育ってきた環境も違う。

中高生ぐらいからSNSを駆使してゲイ同士出会ったりした人もたくさんいるだろうから、出会いに対する激しい渇望はないかもしれない。

またある程度、おとなたちのセクシュアリティに対する理解が進んできたりして、死ぬ気で隠さなきゃいけないっていう感覚も薄れてきている‥‥かもしれない。

同じ秘密を抱えた人と会いたい!っていう切実な欲求は、わたしたちほどではない‥‥がもしれない。

「かもしれない」ばかりなのは、大部分はそんなにわたしの青春時代と変わっていないと思うからだ。

切実に「出会いたい」と思うからこそ、ごく自然体の人間関係を築けない。

そういう若い人たちは、残念ながら少なくないと思う。

傷つく人たちは、これからもいるだろう。

世の中全体が変わらなきゃね。少しでも、生きやすい世の中になるように。

そういうのが、大人世代のつとなんだと思う。

和江さん

30代シスジェンダー(?)ゲイ。

日本の片隅にひっそりと暮らしている。
お仕事は福祉系。


マドンナが大好き。


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