ブーム現象の怖さ

雑記
08 /12 2016
LGBT男性自殺で大学を提訴

いわゆる性的マイノリティー「LGBT」であることを友人たちに知られ、自殺した大学院生の両親が、相談を受けていた大学などに賠償を求める訴えを起こしました。
5日から始まった裁判で、大学側などは訴えを退けるよう求めました。

東京の一橋大学法科大学院の3年生だった男性は、去年4月、男の同級生に好意を打ち明けたところ、無料アプリ「LINE」などを通じて友人たちに言いふらされ、大学の担当者に相談しましたが、4か月後、授業中に自殺を図って亡くなりました。
男性の両親は、自殺を図ったのは大学の不適切な対応が原因で、同級生にも言いふらした責任があるとして、あわせて300万円の賠償を求める訴えを起こしました。
5日から東京地方裁判所で始まった裁判で、大学や同級生側は、訴えを退けるよう求めました。
裁判のあと男性の家族は会見を開き「同級生の理不尽な行動で追い詰められ、大学側もサポートせず放置したことは許せません」と述べました。
両親の弁護士は「同性愛者だと言いふらされると傷ついてしまう社会だということが問題の背景にある。裁判を通じて何かが変わるきっかけになってほしい」と話しました。
一方、一橋大学は「ご冥福を心よりお祈り申し上げるとともに、ご家族の皆さまに謹んで哀悼の意を表します。大学の立場は、裁判で明らかにしていきたい」とコメントしています。




このような事件は本当に胸が痛い。
亡くなった彼の周囲が、ゲイに対して理解ある人たちであったなら、彼は追い詰められることはなかった。
周囲の差別的な言動を身近に感じていたからこそ、彼はアウティングされたことが怖くて辛くて自ら死を選んでしまった。
ここ数年間、メディアを巻き込んでのLGBTブームのようなものがあった。
プライドパレードがメディアに取り上げられるようになり、同性結婚式などのLGBTビジネスが勃興した。
昨年アメリカで同性婚が合憲判断され、日本でも自治体単位でパートナーシップ条例が成立し、施行された。
そんな喧騒のなかの、この事件。
はたして世間はどれだけ変化したのだろうか?

このブログを開設した当初から、「ゲイをカムアウトする」ことに関しては色々考えることがあった。
わたしは一貫して「カムアウトした方がいい」っていうスタンスだった。
「当事者がクローゼットのままでは、世間にとってゲイは身近な存在にならないし、制度的な保障も含めた議論にはならない。偏見や差別もなくならない。まずは可視化することが必要」
っていう、ゲイリブ的な視点もあったし、
「わたしは普通に恋愛してるだけなのに、何でコソコソ隠さないといけないの?親しい間柄の人にまで嘘をついて、自分を偽らないといけないのはおかしい」
っていう、感傷的な理由もあった。
まあ、実際のところ軽率でおしゃべりなわたしが、秘密を抱えつつ生きていくのが困難だったってのが最大な理由だったんだけどね。
大学時代にカムアウトしたのは酔った勢いだった。
基本的には、わたしはゲイがゲイとして生きることが出来る社会が理想だ。
パートナーが出来たら、親しい人に紹介したり、街中で手を繋いでデートしても変な目で見られたりしないのが、「普通」だと思う。

でもセクシュアリティに対するスタンスなんて、当事者だってそれぞれだ。
恋愛やセックスの話をいちいち人に話すのが、そもそもおかしいって考え方もわかる。
カムアウトしなくても、別にゲイライフを楽しむことなんて出来るし、いちいちカムアウトする必要ある?っていう人は、それでいいと思う。
ただ、選択肢としてカムアウトする、しないが選べないとしたら、やはり問題ではないだろうか。

ちょっと話が脱線してしまったけど、このブログを開設した2005年当初に比べたら、ゲイをとりまく環境はそれなりに変化したと思う。
カムアウトすることが身近になったっていうよりは、若い世代にとって「別に隠すことでもない」程度の認識にはなりつつある――――気がしていた。
ところが、残念ながら自殺した大学院生にとっては、知られてしまうことが命を絶つ理由になってしまった。
まだ若い彼の周囲は、ゲイである彼を拒絶してしまった。

残念ながら、社会はそれほど変わらず、ゲイであることを知られるのは、リスクを伴うことであるのに変わりはない。
ブーム現象のようにLGBTはメディアで取りあげられたけれど、人々の意識にどれだけ届いているのだろうか。
LGBTと同様、近年注目されているのがセックスワーカーの人たちの存在だ。
性風俗産業やAV出演者など、性的なサービスを職業とする人たちだ。
かつてはセックスワーカーに対しては、ネガティブな印象を持つ人たちが多かったと思う。
不幸な事情を背負った人たちが、仕方なく就いているとか、性的に搾取されている可哀想な人たちという、同情的な見方もあっただろうし、
特に女性に対しては安直に性を売って、女性の尊厳を傷つけている人たちとでもいうような批判的な意見もあったと思う。
あまり堂々と、セックスワーカーであることを公言するべきではないような、どちらかというと秘密のお仕事のような、そういうイメージがあった。

それがここ数年、AV女優や風俗嬢がSNSを中心に発信するようになり、自分の仕事を恥じたり否定せず、むしろプライドをもってやっている姿が知られるようになった。
業界が必ずしも女性たちを酷使して搾取しているわけではない、また深刻な事情を抱えてその仕事に就いているわけでもない等々、かつてあったネガティブな印象を否定する意見もたくさん見られた。
何となくではあるけど、一つのブーム現象として、LGBTと似た空気を感じていた。
わたし自身はセックスワーカーの労務環境とか、偏見に基づく差別や、労働問題や人権問題としての関心は以前からあった。
プライドパレードにも団体として参加していたので、当事者や支援者の人たちと話す機会もあった。
やりがいや、仕事に対する満足感はあるという人たちが多い反面、労災や社会保険などの環境は整っていないことを問題視する人も多かった。
ネガティブではないけど、問題がないわけでもないという印象があった。
何となくだけれど、ポジティブさを全面に押し出しているかのような、セックスワーカーの発信には、違和感を覚えていた。

それがより具体的に、目に見える形で露呈したのが、今年起こった「AV出演強要問題」だった。
所属事務所からAVに無理やり出演させられた人の告発に対して、一部のAV業界の人が否定し、被害者を批判する声が巻き起こった。
名前と顔を出して告発したAV女優もいたし、もとAV女優の川奈まり子さんがAV女優の組合を設立する等、業界の改善を志向する動きもあった一方で、「AV業界はクリーンです!」というアピールの方が目立っていたように思う。
そして、それに賛同する声もとても多く聞こえてきた。
普通に考えたら、いい事務所やいいメーカーもあるし、悪い事務所や悪いメーカーもあるだろうし、たまたま自分の所属していた会社がよかっただけで業界全体をクリーンっていうのは無理がある。
当事者ならともかく、周辺にいる人たちまでそういう視点を失ってしまうのは、ちょっと怖いことだ。
そして、それが被害者に対する抑圧に繋がってしまった。

と、まあまた話が脱線してしまったけれど、LGBTにせよ、セックスワーカーにせよ、よりポジティブなイメージが広まりつつある一方で、課題はたくさん残っているし、苦しんでいる当事者もたくさんいる。
たった数年前まで、笑い者であり、うしろ指さされる者であり、バカにされる存在であった人たちが、ブーム現象によってポジティブな存在になりつつある。
それ自体が悪いことだとは思わない。
ところが、そのポジティブさにあまり実態を知らない人たちが騙されてしまうのは、苦しんでいる人たちをさらに追い詰めるのではないか。
何より、当事者自身が騙されてしまうのが危険だと思う。

あまり考えがなくカムアウトしてしまったり、ましてやアウティングするなんてとても危険な行為だと知らなくてはいけない。
ブーム現象が一段落し、きちんと地に足をつけて考えていく段階だと思う。
残念ながら世間は忘れっぽく移り気で、そして冷たいのだから。

15周年の21世紀

雑記
06 /04 2016
小学生の頃、地元の駅ビルの電光掲示板に、お知らせや広告と一緒に、「21世紀まであと○○日」という文字が流れていた。
まだ10年少々しか生きておらず、おまけに藤子不二雄ファンだったので、何となく新しい時代への期待感や興奮のようなものもあった。
数年後に2001年を迎えてみて思ったのは、思ったより時代は進歩していなくて、何となくガッカリしたような、でもこんなもんだよね‥‥という感覚だった。
実際のところ21世紀に入って数年間は、多くの人がかつて想定していたような「近未来」のイメージと、実際の21世紀の生活にかなりギャップを感じていたと思う。
インターネットや携帯の進歩は実際のところ凄まじかったと思うのだけれど、やはりロボットとか空飛ぶ自動車とか、そういうわかりやすい近未来生活を、みんな少なからず思い描いていたと思う。

そして今年は2016年。21世紀に入って15年の月日が流れた。
「20世紀とたいして変わんないよね‥‥」なんて言っていた頃も、いつの間にか過去の話になりつつある。
例えば、衝突回避装置のついた車の登場は少なからず衝撃的だったし、あちこちに電気自動車の充電スタンドがある光景は結構近未来的だ。
AI(人工知能)の実用化が徐々に現実的な話になっているのは、時代はついにここまできたかという感慨があった。
ただ街中にロボットが歩いてるような未来は、まだまだ先のことだと思うけれど。

しかし新しいテクノロジーが次々と生まれたとしても、多くの人があまねく利用出来るものになるのかというのは疑問もある。
インターネットだって、お年寄りや機械が苦手な人たちは長らく置き去りにされていた。
PCやインターネット環境のない人は、不便に感じることも多かったと思う。
AIやIoTについても、同じことは起きるのではないだろうか。

そして、生活に新しいテクノロジーが入ってくれば、当然それに対する新たなコストもかかる。
それを支払うぶん、人々の収入も連動して増えるなんて都合のいいことはない。
多くの人は何かを削って新しいテクノロジーを利用することになる。
「若者の○○離れ」と同じだ。
単純に若者の可処分所得が減っただけじゃない。
ケータイに支払うお金が、生活を圧迫するようになったからだ。
便利さと豊かさは、また別のものだと思う。

得るものもあれば、失うものもある。
失うものの価値について、守れるものは守っていかないとね。

ハイカットとジョガーパンツ

雑記
04 /14 2016


ジーンズの股上が、深くなってきている。
GUの目玉商品?の「マムジーンズ」は「お母さんが昔はいていたジーンズ」のことで、
ローライズがブームになる前の80~90年代っぽいデザインのジーンズをそう呼んでいるらしい。
2000年頃にローライズのジーンズが流行り始めてから、男女問わず若者が穿いているのはローライズだった。
ブーツカットやスキニーなど形は色々変わったけれど、基本的に股上は浅く、腰骨に引っかけるように穿くのが普通だった。
2007年頃にへそまであるジーンズが流行るといわれたこともあったけれど、ワンシーズンだけ、それもほとんど流行らずに終わった。
時期的に少し早かったんだろうな。
その頃はまだハイウエストのジーンズは、ファッションにあまり興味のないマダムなんかには現役のファッションで、
おしゃれ大好きな若い女性には抵抗があるものだったと思う。
それから10年近い時が経ち、「若者」も「世代交代」した。
今10代後半~20代前半ぐらいの子たちは物心ついた頃にはローライズのジーンズが巷に溢れているのを見てきた世代だ。
その子たちからすると、ローライズのジーンズを愛用していた30代こそ、「おじさんおばさん世代」であり、ローライズのジーンズは古くさいファッションに見えると思う。

もっとも、若者ファッションにジーンズが欠かせないアイテムっていうのも、ちょっと古い感覚のようで、
ジーパンよりジョガーパンツ(ジョギング用トレーニングパンツ。裾が絞ってある) を好む若者も多い。
よりスポーティーなアイテムが好まれる傾向にあるようだ。
実をいうとジョガーパンツにはちょっと抵抗もあって、ズボンの裾が絞ってあるのがどうしてもオシャレに見えなかった。
でもゲイナイトで若いゲイの子たちが穿いてるのや、いわゆるシャイニーなゲイのインスタグラムでも穿いてる人が写ってて、
若いオシャレなゲイは抵抗ないということがわかってきた。
若い子が受け入れてるファッションに抵抗があるのは、感性がおじさんになった証拠だ!という変な焦りもあり、ジョガーパンツを購入してみた。


※写真はイメージです。

結構悪くない!
意外と自分には似合ってる!
何より手持ちの服と合わせてみると、2~3年前に買った服でも新しく見えるし、自分自身も若返って見える。
というわけで今では結構お気に入りのアイテムになった。
うーん、購入の動機といい、購入後の感想といい、オババゲイそのものなのだけど。33歳、気になるお年頃なのだ。
ちなみにへそまでジーンズはさすがに購入する気にはなれなくて、もう少し世間に浸透してからにしたい。
だって‥‥ねぇ?中学生の頃穿いてたジーパンみたいで、どうしても‥‥。
流行といって、すぐに飛びつくことが出来る年齢でもないのだ。

「新しい流行」に抵抗ある人は、何もおじさんおばさんに限らず、若い世代にもいる。
新しいアイテムに対して否定的な人が、必ず口にするのは、「日本人には似合わない」。
ローライズが流行ったときは、「足の短い日本人には似合わない」だった。
そして今ハイカットのジーンズが流行り始めたら「お尻が大きく見えてスタイルよくない日本人には似合わない」という。
これだったら、そもそもジーパンは日本人には合わないってことになりそうだけど。
でも海外から直接買いつけるならまだしも、日本で買う洋服なんて、日本人向けにデザインし直されたものじゃん。
心配しなくても、足が短くてスタイル悪い日本人に合うようなアイテムが店頭に並ぶよ。

たかがファッションではあるけど、わたしは新しいものには敏感でありたいと思う。
保守的にはなりたくないんだよね。
だからこれからも、若作りを続けていくだろう。

2月~3月のお出かけ

雑記
03 /23 2016
城崎温泉




広島






2月には城崎に温泉旅行に行ってきました。
つい先日ですが、広島のゲイミックスナイトにも行ってきました。
たつやと一緒です。

旅行に行く度に、今度はあそこに行きたい、あんなところにも行ってみたいという話になります。笑
ゲイナイトは二人とも大好きなので、共通の趣味が持てたことがうれしいです。

がんばれゆとり世代

雑記
12 /05 2015
ついこの間まで「平成生まれなんてガキだよね」 と思っていたのだけど、気がついたら平成も28年を迎えようとしていて、来年には21世紀生まれ(早生まれの子たちね)が高校に入学する。
21世紀生まれなんて「ガキ」どころか「幼児」ぐらいに思っていたけど、 先頭はもうローティーンなんだよね。
そりゃもう自分も歳をとるわけで、気がつけば33歳になっていた。
歳はとっても平成生まれの彼氏からはいまだに何か子ども扱いされているのだけど、そんな彼ももう20代半ばだ。
平成生まれの子たちは大人の領域に足を踏み入れている。
昭和っていうと、何かもうすっかりアダルトなイメージだ。

平成生まれの若者というと、どうしても「ゆとり世代」という印象がつきまとって、知識のなさや常識のなさがバッシングされたりもしたけど、最近はバッシングも少し沈静化してるように思う。
一般的に「ゆとり世代」というと高校生からゆとり教育を受けた1987年(昭和62年)生まれから、2003年(平成15年)生まれの人のことをいうそうだ。
これには異論もあって、小中学校では2012年(平成24年)、高校では2013年(平成25年)から施行された「脱ゆとり教育」課程を受けた人たちは「脱ゆとり世代」という呼び方をする人もいるらしい。
具体的にいうと1996年(平成8年)生まれ以降の子たちだ。
ここらへんにこだわるかこだわらないかは人それぞれだけど、「ゆとり世代」という言葉は蔑称でもあるので、当事者の中には気にしている人もいると思う。

さすがに「円周率は3」を今でも信じている人は少ない‥‥と思うのだけど、マスコミの無責任な報道のせいでゆとり世代は知識も教養もない人たちみたいなイメージを持つ人も少なくない。
確かに教える内容は3割削減されたし、教科書が薄くなった(特に社会科ね)のも事実。
そうなんだけどそもそも、その削減された内容って、大人たちは覚えているんだろうか?定着してる?
昭和57年生まれのわたしはゆとり教育は受けてないけど、高校の数学なんて何一つ覚えてないし、今テスト受けたら余裕で0点だよ。
それでも一応大学は出ているけど。
これは多分「つめ込み教育」という教育課程を受けた、今50代ぐらいの人でも似たようなもんだと思う。
もちろん大学や専門的な研究機関だと問題になったことはあっただろうし、それで損失もあっただろう。
でも大半の人の人生には教育課程はそれほど影響してないのも事実だ。
個人としての知性や教養は、あまり年齢や世代は関係ない。
ましてや社会常識がないってのは、ゆとり云々関係ないじゃん。
若者なんてそんなもんだし、おっさんおばさんも常識ない人たくさんいるよ。
いつの時代にもある若者叩きに、「ゆとり」という言葉が使われて、本当に可哀想だと思う。

わたしは実は、今の若者好きなんだよね。
「ゆとり世代」といわれる若い人たちが。
あまりに怖いもの知らずで、ちょっと心配になることもあるけど、すごく意欲的で行動力がある人が多いと思う。
わたしたちの世代でもそうだったし、もっと上の世代でもそうだっただろうけど、若者は政治について語るのを避けてきた。
社会運動的なものとは一歩引いているのが普通で、話題に出すにしてもどこか他人事で語るのが精一杯だった。
もちろん若者全体のうちでは、ほんの一握りではあると思うけど、原発問題や安保法制に声をあげた人たちにはたくさんの若者がいた。
顔出しで表に出るリスクを背負いながら、自分たちの言葉を一生懸命発していたのだ。
運動の中身や方法論に対して批判もたくさんあったし、問題も色々露呈してはいるけれど個人的には大きな一歩だと評価するべきだと思う。
もちろん今後もこの流れが継続するって前提だけど。
少なくとも冷笑主義で嘲笑っていただけの大人たちより、若者たちは真剣で誠実だった。
そんな情けない大人たちのどうでもいいような笑いより、受け取ってほしい言葉はたくさんあるよ。

「がんばれ」は「頑張れ」ではなく、「顔晴れ」だと受け取ってほしい。
がんばれ若者たち、がんばれゆとり世代、そしてがんばれ大人たちも。

味わいのある人生

雑記
11 /15 2015


いつもは車で通りすぎてしまう道も、歩いてみると全く違って見えることがある。
何の変哲もない、殺風景な景色なのにしみじみとした感慨があったり。
あえてゆっくり歩いてみたり、歩みを止めてみたり、時には後ろを振り返ってみたり、そうすることで新たな発見がある。
人生も同じだと思う。
生きていくことって味わい深い。

和江がBAdiに載る日

雑記
09 /24 2015
先月号ですが、わたし、BAdiに載ってます。


これは「載ってる」んじゃなくて「写りこんでる」っていうんだよ!!!
というツッコミはどうぞご容赦下さいませ。笑

70年目の夏

雑記
08 /19 2015
毎年やってくる8月15日、終戦記念日だけれど、今年は戦後70年にあたるので例年より特別な思いがあった人もいると思う。
安保法案について国会が紛糾している最中でもあるし、70年間続いてきた平和国家としての日本が大きな転換点を迎えようとしている。
保守派で改憲派の学者ですら違憲だと批判せざるを得ないような法律を押し通そうとされている。
国会中継やニュースを見れば、総理も防衛大臣も、野党からの質問にまともに答えず、まるで壊れたレコードみたいに言いたいことだけを言い散らかしているだけ。
戦後70年目の夏、日本の政治は明らかに異常な事態に陥っていると思う。

自民党の武藤貴也議員が、安保法案反対デモに参加している若者たちを、
「戦争に行きたくないという利己的な若者たち」と批判しているのを知ったとき、何だか背筋が寒くなってきた。
右派の政治家が問題発言をすることは、今までいくたびもあったけれど、それでもこんな露骨な発言をすることはなかったように思う。
ある程度「建前」だけは守ってきていたのが、今はもう「建前」すらない。
武藤議員の発言に、怒りをぶつける人はたくさんいたけれど、この発言で彼が辞職に追い込まれることはなかった。

そりゃ、言論の自由というものがある以上、辞職するのが当然とは言わない。
でも自由に発言をする以上、自分の言うことに責任は持たなきゃいけないでしょ。
あんな謝罪したんだかしてないんだかわからない、形だけの謝罪で見逃すわけにもいかないよ。
真摯に反省もしてないし、問題点が何かわかってないんだよ。

わたしは彼の発言そのものより、ああいう発言が堂々とまかり通ってる今の時代が恐ろしい。
しかるべき立場にある人が、何の躊躇もなく人権を無視した発言が出来る空気が漂っている。
少なくとも昔の自民党なら、内部から批判する声もちゃんとあったのに‥‥。
何かが崩れつつあるのか、あるいはとっくに崩れてしまったのか。

果たして10年後、「戦後80年」を語らうことは出来るのだろうか。
そのときわたしたちは、戦争で殺されていった人たちに、平和と不戦を誓うことが出来るのだろうか。
平和への祈りが虚しいものにならないよう、あらためて考えるべきときだと思うのだ。

真夏の願望

雑記
08 /14 2015


いわゆる「趣味:旅行」というタイプでもないのだけど、時々無性に旅行に行きたくなる。
少し長い休みをとって、北欧とかカナダとかでゆったり過ごしたい。
1日ぐらい、ベッドのなかで朝から晩まで愛を育むのもいい。

遥かなるニューヨク

雑記
07 /12 2015


一般的に日本人は風呂好きというイメージがあり、古代ローマを舞台にした漫画「テルマエ・ロマエ」を描いたヤマザキマリさんも、
イタリア人のご主人に風呂好きをからかわれたのが「テルマエ・ロマエ」を描いたきっかけになったとコミックスの後書きに書いていた。
もう10年以上前だけど、作家の岩井志麻子さんが当時韓国に住んでいた頃、韓国のアパートにはバスタブがない所も多くて(岩井さんのアパートにはシャワー室しかなかったらしい)、
バスタブを買ってベランダに置いていたのをテレビで見たことがある。
日本のアパートだと、小さいながらもバスタブがついているところが多いと思うから、外国に比べるとお風呂に対する意識は高いと思う。
まあワンルームマンションの、ユニットバスを風呂と呼べるのかちょっと疑問だけど。
学生時代はずっとユニットバスだったので、社会人になった時のアパート選びにこだわったのはお風呂とトイレがセパレートになっているかどうかだった。

そうはいっても、一人暮らしのアパートに風呂がついているのが普通というのも、多分ここ30年ぐらいのことだと思う。
1970年代のフォークソング「神田川」では同棲してる二人が銭湯に行く様子が歌詞に書かれているのは有名だし、
もっと後の時代、バブル経済に突入した1987年に連載がスタートした漫画「白鳥麗子でございます」で主人公の麗子さんと哲也くんが住んでるアパートにもお風呂はなかった。
(それこそ麗子さんが「神田川」歌いながら銭湯の前で哲也くんを待ってるシーンもあった)。
さすがに一戸建てやファミリー向けマンションにはもっと以前から風呂は普及していただろうけど、80年代にはまだ風呂なしアパート文化(?)の名残があったんじゃないかな。

そもそも日本人の風呂好き文化が、古代ローマに匹敵するほどとは思えない。
ローマ帝国の時代は、まだ日本は弥生時代だから比較するのはさすがに無理があるにしても、銭湯などの入浴文化が一般的になるのは近世に入ってからだ。
幕末の大奥では、降嫁した皇女和宮が入浴を嫌がり、10日に1度しか入浴しなかったっていうエピソードもある。
ちなみに和宮と対立した姑天璋院篤姫は風呂好きで、毎日朝晩入浴していたらしい。
恐らく京の皇族や公家には江戸末期になっても入浴する文化は一般的ではなかったのだろう。
風呂好きだった江戸の町人だって、果たして毎日銭湯に通う余裕があったのかなぁ?
ましてや農村部なんて風呂どころじゃなかったと思うし。

ちなみに「風呂」という言葉自体はもっと前の時代からあったようだけど、それは「蒸し風呂」のことであり、現代風にいえばミストサウナのことだ。
平安時代の貴族は年に数回、この蒸し風呂に入って汗をかき、行水して身を清めていた。
わたしは平安時代が大好きで、華やかな貴族文化には物凄い憧れがあるのだけど、お湯に浸かれないのは無理だなぁ。
そりゃ石鹸やシャンプーないのは仕方ないけどさ。

わたしはもしタイムマシンあるなら、清少納言に入浴の素晴らしさを伝えにいくと思う。
多分なのだけど、美意識の高い清少納言なら絶対に現代風の入浴を気に入るように思える。
お湯を使ってきれいに洗髪したサラサラヘアを見たら「いとうるはし」なんて形容するんじゃないかな。

平安時代は貴族の間で男色も盛んだった。
権力闘争と密接に結びついていたし、現代の同性愛とはちょっと異なるのだけど、ヤることは現代とそんなに変わらないと思う。
セックスと知性が男の武器だった時代ってのは、何とも魅惑的なんだけど、多分清潔にはほど遠いセックスだったと思う。
やはり貴族の貴公子には入浴と浣腸(失礼‥‥)の仕方を教えてあげたい。
平安時代の男性も、恐らく清潔な男の体の方がよかったと思う。

‥‥なーんてことを考えてると温泉に行きたくなったな。
うん、今度の休みは温泉に行こう。

続きを読む

和江さん

30代シスジェンダー(?)ゲイ。

日本の片隅にひっそりと暮らしている。
お仕事は福祉系。


マドンナが大好き。


リンクフリー、トラックバックやコメント大歓迎です。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。