愛と渇望、自分を取り戻す日

雑記
07 /14 2017

以前このブログに頻繁に登場していた「職場のKくん」と久しぶりに話す機会があった。

彼もわたしも「職場」はとっくに辞めているので、正確にいうと「かつて同じ職場だったKくん」なのだけど、さすがにまどろっこしいし、よそよそしいので「親友Kくん」と呼びたい。

親友という割に実は3年ぶりに会ったのだけど、実はわたしって人間関係が非常に希薄であり、結構人と会うのが億劫になりがちだ。

SNS時代の人間関係作りについて批判的な人も多いのだが、わたしなんかはSNSがなきゃ誰とも連絡取らず、ひたすら孤立していきそうなのでSNS時代には感謝しなくてはならない‥‥などという書き方をしたら大げさで、ようはLINEやFacebookのおかげで古い友達とも切れずにすんでるってだけなんだけどね。

そこらへんの話はまあどうでもよくて、どうでもいい割に長い前置きになってしまったのだけど、久しぶりに話したKくんは、相変わらず恋に仕事に悩める男だった。

相談に乗っているつもりで、ついつい自分のくだらない話をしてしまうわたしも、相変わらず空気の読めないオカマだった。

でもKくんの場合、いい意味でも変わってなくて、自分のことに関してはトコトン真面目に考えて、考えすぎて悩んでる。

30代も半ばになれば、みんなどこかしらあっけらかんとテキトーになってしまうのだけど、それが出来ないんだよね。

心配になる部分でもあり、またとても好ましい部分でもある。

彼のそういう真面目さやお堅い部分、かつては自身だけじゃなくてわたしにも向いていた。

かつてわたしも、「刹那の情事を楽しんでいた」時期もあったのだけど(単純に手当たり次第男を食い散らかしていた)、その時期は随分と批判も受けたわけだ。

「今思うと、あの頃の和江さんって本当に孤独で、愛されることを欲していたんだなって思うんですよ。今になってやっと、気持ちがわかるようになって」。

Kくんがポツリと言った。

うーん、批判されてた頃は口煩くて不粋な人ねぇなんてことも思ってたけど、これはこれで美化しすぎですよとは思う。

でもどこかで「誰かに愛されたい」気持ちはあって、渇望するような感覚はあったんだろう。

だからこそ「刹那の情事」を刹那と割りきれず、引きずっちゃうことも多かったし、恋愛しても上手くいかなかった気がする。

ただ孤独だの愛だのという以前に、男を知るのが楽しくて仕方なかったってのが、当時のわたしだったと思うのだけれど。

そして、「孤独」と「愛されたい」は今まさにKくんが感じていることじゃないかな?という気がした。

そこらへん友人であるところのわたしには、埋められることが出来ないのではあるけど。

「いつかふっ切れる日がくるわ。孤独は辛くなくなるし、愛にすがりつくこともなくなるわ。本当にね、ふっ切れるのよ。それがいつの日かはわからないけれど‥‥」

アドバイスにも気休めにもならないとは思いつつ、こんな言葉をかけた。

実際のところ、前の彼氏とのつき合いがなかったら、わたしもこんな心境にはなれなかったかもしれない。

まさに愛という名の支配であり、自分の人生を奪われてしまった感覚。それは孤独よりずっと辛いものだった。

ふっ切れたという言葉を使ったけれど、わたしがわたしの人生を取り戻した瞬間でもあった。

きちんと自分と向き合う瞬間があったからこそ、今の彼氏とつき合うことも出来たし、いい関係を築くことも出来た。

ただ、こういうのって人生訓よろしく解説したところで伝わらない。

Kくんも頭では理解しつつ、悩みから抜け出すには何かきっかけがないと難しいと思う。

相変わらず力になれないわたしではあったけれど、「楽になりました」とねぎらってくれたKくん。

そんな彼の真面目さや優しさが、愛おしいような、切ないような。

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和江さん

30代シスジェンダー(?)ゲイ。

日本の片隅にひっそりと暮らしている。
お仕事は福祉系。


マドンナが大好き。


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