15周年の21世紀

雑記
06 /04 2016
小学生の頃、地元の駅ビルの電光掲示板に、お知らせや広告と一緒に、「21世紀まであと○○日」という文字が流れていた。
まだ10年少々しか生きておらず、おまけに藤子不二雄ファンだったので、何となく新しい時代への期待感や興奮のようなものもあった。
数年後に2001年を迎えてみて思ったのは、思ったより時代は進歩していなくて、何となくガッカリしたような、でもこんなもんだよね‥‥という感覚だった。
実際のところ21世紀に入って数年間は、多くの人がかつて想定していたような「近未来」のイメージと、実際の21世紀の生活にかなりギャップを感じていたと思う。
インターネットや携帯の進歩は実際のところ凄まじかったと思うのだけれど、やはりロボットとか空飛ぶ自動車とか、そういうわかりやすい近未来生活を、みんな少なからず思い描いていたと思う。

そして今年は2016年。21世紀に入って15年の月日が流れた。
「20世紀とたいして変わんないよね‥‥」なんて言っていた頃も、いつの間にか過去の話になりつつある。
例えば、衝突回避装置のついた車の登場は少なからず衝撃的だったし、あちこちに電気自動車の充電スタンドがある光景は結構近未来的だ。
AI(人工知能)の実用化が徐々に現実的な話になっているのは、時代はついにここまできたかという感慨があった。
ただ街中にロボットが歩いてるような未来は、まだまだ先のことだと思うけれど。

しかし新しいテクノロジーが次々と生まれたとしても、多くの人があまねく利用出来るものになるのかというのは疑問もある。
インターネットだって、お年寄りや機械が苦手な人たちは長らく置き去りにされていた。
PCやインターネット環境のない人は、不便に感じることも多かったと思う。
AIやIoTについても、同じことは起きるのではないだろうか。

そして、生活に新しいテクノロジーが入ってくれば、当然それに対する新たなコストもかかる。
それを支払うぶん、人々の収入も連動して増えるなんて都合のいいことはない。
多くの人は何かを削って新しいテクノロジーを利用することになる。
「若者の○○離れ」と同じだ。
単純に若者の可処分所得が減っただけじゃない。
ケータイに支払うお金が、生活を圧迫するようになったからだ。
便利さと豊かさは、また別のものだと思う。

得るものもあれば、失うものもある。
失うものの価値について、守れるものは守っていかないとね。
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和江さん

30代シスジェンダー(?)ゲイ。

日本の片隅にひっそりと暮らしている。
お仕事は福祉系。


マドンナが大好き。


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