若者たちは出会いたい

雑記
07 /27 2017

もう10年以上前のことだけれど、「ゲイの世界は洋服や家電製品を選ぶように人間関係も作られていく」と言った人がいた。

当時わたしは20代前半で、長くつき合ってきた彼氏と別れた直後だった。

周囲にゲイの友達もいなくて、30歳の彼が言うことの真意がよくつかめなかった。

その後mixiやらメンミクやらでゲイの友達(イロありなし問わず)作りをしていき、前の彼氏とのつき合いや別れを経験し、30も手前になる頃には彼の言葉が身にしみて理解出来るようになった。

初対面からの、値踏みのしあい。

「友達募集」といいつつ、容姿が好みのタイプとしか会わない。

最初にリアル(SNSで繋がっていた相手と実際に会うこと)するときは、お互いの容姿やスペックなど、カッコよさを値踏みしあい、品定めしあい、仲良くなったら得か損かを勘定にかける。

そしてどうしても頭の片隅に、色恋に発展するかどうかを考えてしまう。

恋人にせよ、友達にせよ、そういう風に人間関係が選ばれ、築かれていく。

掲示板やSNSがカタログなら、リアルで会うことはショールーム。

まさしく洋服や家電製品のように人が選ばれ、いらないものは切り捨てられていく。

みんなそうだから、ある程度お互いさまではあるのだけど、人気者とそうでない人は周囲にいる人たちの数が違うし、おのずとカーストが形成されてしまう。

そういう独特のいやらしさや残酷さを感じながらも、自分自身もついついそうやって人間関係を選択してきた。

「ああ、ゲイの世界って‥‥」

30手前になった頃、わたしもそんな風に思うようになった。

冒頭のゲイの人が言っていたのと、同じ年齢になっていた。

前の彼氏と別れて以降、「SNSと掲示板」以外の手段で友達関係を作るようになったり、イベントごとにも参加するようになって、考えも変わっていった。

優しい人にもたくさん出会うことが出来たし。むしろ人情に厚い部分もある。

ただ、若い子を見たりすると「あー値踏みしあってんな」と思うことも多い。

そりゃそうだよね。みんな「一に出会い、二に出会い」。

とにかく出会いを何よりも欲しているのだから。

色恋も大事だけど、みんなゲイの人間関係が欲しくて仕方ない。

だから出会いたい。

80年代前半の生まれのわたしと、90年代半ば生まれの若者では育ってきた環境も違う。

中高生ぐらいからSNSを駆使してゲイ同士出会ったりした人もたくさんいるだろうから、出会いに対する激しい渇望はないかもしれない。

またある程度、おとなたちのセクシュアリティに対する理解が進んできたりして、死ぬ気で隠さなきゃいけないっていう感覚も薄れてきている‥‥かもしれない。

同じ秘密を抱えた人と会いたい!っていう切実な欲求は、わたしたちほどではない‥‥がもしれない。

「かもしれない」ばかりなのは、大部分はそんなにわたしの青春時代と変わっていないと思うからだ。

切実に「出会いたい」と思うからこそ、ごく自然体の人間関係を築けない。

そういう若い人たちは、残念ながら少なくないと思う。

傷つく人たちは、これからもいるだろう。

世の中全体が変わらなきゃね。少しでも、生きやすい世の中になるように。

そういうのが、大人世代のつとなんだと思う。

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愛と渇望、自分を取り戻す日

雑記
07 /14 2017

以前このブログに頻繁に登場していた「職場のKくん」と久しぶりに話す機会があった。

彼もわたしも「職場」はとっくに辞めているので、正確にいうと「かつて同じ職場だったKくん」なのだけど、さすがにまどろっこしいし、よそよそしいので「親友Kくん」と呼びたい。

親友という割に実は3年ぶりに会ったのだけど、実はわたしって人間関係が非常に希薄であり、結構人と会うのが億劫になりがちだ。

SNS時代の人間関係作りについて批判的な人も多いのだが、わたしなんかはSNSがなきゃ誰とも連絡取らず、ひたすら孤立していきそうなのでSNS時代には感謝しなくてはならない‥‥などという書き方をしたら大げさで、ようはLINEやFacebookのおかげで古い友達とも切れずにすんでるってだけなんだけどね。

そこらへんの話はまあどうでもよくて、どうでもいい割に長い前置きになってしまったのだけど、久しぶりに話したKくんは、相変わらず恋に仕事に悩める男だった。

相談に乗っているつもりで、ついつい自分のくだらない話をしてしまうわたしも、相変わらず空気の読めないオカマだった。

でもKくんの場合、いい意味でも変わってなくて、自分のことに関してはトコトン真面目に考えて、考えすぎて悩んでる。

30代も半ばになれば、みんなどこかしらあっけらかんとテキトーになってしまうのだけど、それが出来ないんだよね。

心配になる部分でもあり、またとても好ましい部分でもある。

彼のそういう真面目さやお堅い部分、かつては自身だけじゃなくてわたしにも向いていた。

かつてわたしも、「刹那の情事を楽しんでいた」時期もあったのだけど(単純に手当たり次第男を食い散らかしていた)、その時期は随分と批判も受けたわけだ。

「今思うと、あの頃の和江さんって本当に孤独で、愛されることを欲していたんだなって思うんですよ。今になってやっと、気持ちがわかるようになって」。

Kくんがポツリと言った。

うーん、批判されてた頃は口煩くて不粋な人ねぇなんてことも思ってたけど、これはこれで美化しすぎですよとは思う。

でもどこかで「誰かに愛されたい」気持ちはあって、渇望するような感覚はあったんだろう。

だからこそ「刹那の情事」を刹那と割りきれず、引きずっちゃうことも多かったし、恋愛しても上手くいかなかった気がする。

ただ孤独だの愛だのという以前に、男を知るのが楽しくて仕方なかったってのが、当時のわたしだったと思うのだけれど。

そして、「孤独」と「愛されたい」は今まさにKくんが感じていることじゃないかな?という気がした。

そこらへん友人であるところのわたしには、埋められることが出来ないのではあるけど。

「いつかふっ切れる日がくるわ。孤独は辛くなくなるし、愛にすがりつくこともなくなるわ。本当にね、ふっ切れるのよ。それがいつの日かはわからないけれど‥‥」

アドバイスにも気休めにもならないとは思いつつ、こんな言葉をかけた。

実際のところ、前の彼氏とのつき合いがなかったら、わたしもこんな心境にはなれなかったかもしれない。

まさに愛という名の支配であり、自分の人生を奪われてしまった感覚。それは孤独よりずっと辛いものだった。

ふっ切れたという言葉を使ったけれど、わたしがわたしの人生を取り戻した瞬間でもあった。

きちんと自分と向き合う瞬間があったからこそ、今の彼氏とつき合うことも出来たし、いい関係を築くことも出来た。

ただ、こういうのって人生訓よろしく解説したところで伝わらない。

Kくんも頭では理解しつつ、悩みから抜け出すには何かきっかけがないと難しいと思う。

相変わらず力になれないわたしではあったけれど、「楽になりました」とねぎらってくれたKくん。

そんな彼の真面目さや優しさが、愛おしいような、切ないような。

4月の情景

雑記
04 /24 2017


真夏のような暑い日と、冬が戻ってきたかのような寒い日が繰り返して、体調も気分も少し崩れぎみ。
年度がわりは職場も多少ゴタゴタしたものの、もう4月も下旬だ。
忙しいせいか、自分が歳くったせいか、月日がたつのが早く感じられる。

真新しいスーツを着た新社会人を見て、初々しくていいなあと思いつつ、そういう風に思えない時もあったよな‥‥って思い出す。
11年前、初めて無職になった時は見るのが辛かった。
その後、今でいうところのブラック企業に勤めて再び無職になったり、どん底は何回か味わっている。
すべて順調かっていうと、そうじゃないけど、どうにかこうにか這い上がってきた。

4月は少しセンチメンタルな季節だ。

25年前の「サヨナラ」

雑記
03 /20 2017


流れる季節に君だけ足りない
はぐれた心の足跡を探す
カバンにつめた悲しい幸せ
遠くへ行くほど君を思い出す

「サヨナラ」/GAO

春は別れの季節、というわけで人事異動の発表なんかもあり、ちょっとセンチメンタルな今日この頃。
念のために断っておくと、彼氏とは相変わらずラブラブしてます。笑

ちなみにこの曲を歌っていたGAOさんは、現在はFtMとして生活されているようです。
そのせいかどうか、どことなくこの歌に出てくる「二人」がLGBTsのカップルのようにも思えます。
現在ほど同性愛やトランスが、一般的に認知されていないバブル前後の日本で、お互い夢を追いながら愛し合っていたゲイやレズビアンの、あるいは片方がトランスのカップル。
若かった二人のどちらかが、夢を諦めなくてはいけなくなり、ノンケとして生活することを選んだ。
そんな情景がどことなく浮かんでもきます。

暗闇ではなくて

雑記
02 /21 2017

ブログを更新しない間に、アメリカでトランプが大統領になったり、好きだった俳優の成宮寛貴くんが芸能界引退したり、世間的にも色々あった。

一つ一つ思うところがあって、記事にしていきたいと思いつつ何となく億劫で、また思うところが多すぎて言葉にならなくて、ついつい更新から遠ざかってしまったのだけど。

トランプの就任以降のゴタゴタで感じることの一つは、世の中ってのはいとも簡単に「逆行」しちゃうってことで、反動的な力はすさまじく強いってことだ。

Twitterでキャシーさんが言ってたけど、権利を勝ち取るための闘いはものすごい労力がいるけど、失うのは一瞬ってこと。

そういうのが、ものすごく身近に感じられる時代になってしまった。

「絶望してる暇なんてないでしょ?」

1月のWomen's Marchでマドンナはそう言った。

彼女の言葉は多くの人を勇気づけ、奮い立たせた。

でもきっと、大統領選以降マドンナだって一度は絶望したり、涙を流したことだと思う。

彼女のスピーチからは力強さや怒り、愛と同じぐらい悲しみが込められていたような気がした。

アメリカだけじゃない。世界中のあちこちが、何か得体の知れない闇に包まれていくのを感じている。

その中でかすかな光を探し求め、希望につなげていかなくちゃいけない。

書きたいことはまだあるのだけど、今日のところはこのへんで。

34歳という年齢

雑記
11 /28 2016
もう1ヵ月以上も前なのですが、10月18日に34歳になりました。
2005年の5月にこのブログを始めた頃は22歳と7ヵ月だったわけで、干支が一回りするぐらいの間、続けてくることが出来たのは、何となく感慨深いものもあります。
時々このブログを読み返すこともあるのですが、我ながら若いなぁー、バカだなぁーと思うことも書いてありますし、逆にずいぶん繊細な感覚もあったんだな‥‥と思うこともあったり。
文章に残しておくことって、結構大切なのかもしれません。
その時々に何を感じていたか、振り返ることは今を生きるヒントになると思います。
そして、自分が若い頃に何をどのように感じていたかというのを、今の若い世代が、同じことをどう感じるか比較してみるのも興味深いでしょう。
特にセクシュアルマイノリティ、LGBTs関連ではここ10年間で大きく世間の認識は変わったと感じています。
一方で、大人たちの感覚は必ずしも変化していないようにも思われます。
やはり次世代である若者たちの感覚が、一番気になるところです。

ちなみに、わたしは1982年生まれですが、今年こんな本も出ています。

「1982 名前のない世代」


少年期から青年期、大人になるまで正直変な注目をされることも多かった世代であったわたしたちの世代を、総括したような内容といえるかもしれません。
本は俯瞰的に世代全体を書いていますが、自分自身はどうだったのか?を振り返る際、やはり自分が書いてきたものが一番の資料です。
そして忘れてはいけないのは、若者たちには若者自身の見つめてきた世界があり、その蓄積があるということ。
その蓄積があって、わたしたちの世代とは異なる世界の捉え方をしているということを理解しなければいけないと思うのです。
34歳、もう中年という年代に足を突っ込んでいる今、この感覚を大切にしたいと思う今日この頃です。

日常はくすんでるぐらいでちょうどいい

雑記
10 /12 2016




旅行に出るっていうのはそもそも「非日常」なのだけれど、特に田舎に住む人にとって大都市に旅行することはものすごい非日常を味わう。
元日の初詣みたいな人数の人たちが街に溢れかえっていることも、周りのビルが高いことも、どこまでいっても街が続いていることも田舎の人にとっては不思議な光景だ。
ガラスばりのビルに入っているカフェや、美術館のようなブティックのショーウィンドウはいつ見ても心ときめくものだし、あるいは戦前からあるようなレトロモダンな建築物や老舗の店が今でもきちんと残っているのもまた都会らしい風情だ。

一言で田舎とはいっても、例えば県庁所在地のように人口数十万が住んでいる市の中心部と、本当に田んぼしかない郡部では住んでる人の感覚も変わってくる。
「郊外」という繁華街でもなきゃ田舎でもない地域もある。
ただどの地域に住んでいる人であれ、田舎の人が都会を旅行して、帰りの道すがら思うことは、おそらく共通していると思う。
「ああ、明日からまたしみったれた日常が始まるのだ」と。
キラキラした都会に比べると、田舎は街も野山もくすんで見えてしまう。
花火大会が終わった夜のような淋しさが胸にただようのだ。

うんと若い頃、中高生の頃から「都会に出る!」は大きな夢だった。
大学進学がそのチャンスだったけれど、結局田舎の大学に進学することになった。
就職は都会に出たかったけれど、大学生も後半になると地元に戻りたいという気持ちも芽生え始めていた。
結局、卒業しても田舎暮らし。
生まれてから34年間、都会暮らしは出来ずにきているし、よほどのことがない限り都会に出るつもりもない。

ガラスばりの高層ビルを歩いていると、無理をしてでも都会に出ていたら‥‥って考えることはある。
でも思うんだけれど、結局適応できずに逃げ帰ることになっていたような気もする。
たらればで人生考えても、不毛だとは思うのだけれど。

一つだけわかることがあるとするなら、キラキラした街並みも、「日常」になってしまうと、それは感動的なものではなくなる。
田舎に住む人の日常はくすんでるかもしれないけれど、だからこそ道ばたに咲いている花にふとした安らぎや感動があったりするものだし、季節の移り変わりに発見があったりする。
そんな大層なものではないのだけど、そういうところにも楽しみを見いだすことも可能だ。
たまに都会に出れば、一つのアミューズメントパークになるし、大きな刺激を得ることも出来る。
キラキラした日常を過ごす人たちが田舎に行っても、観光地を歩くのは刺激になると思う。
でも何の変哲もない田んぼ道を歩いても、何か感慨があるとも思えない。
都会から来た人で、そういうところで新鮮な感動を覚えるような人は、ものすごく感性が豊かな人じゃないかな。

SNSを見れば、都会の人たちは海外旅行したりして、キラキラした非日常を味わったりしている。
わざわざ田舎に来て、くすんだ「非日常」を味わう必要もないだろうし。
日常なんて、多少くすんでる方が非日常を楽しむ幅は広がる。
そして日常から何かを感じる感性が、日々の生活を豊かにする。

デブゲイな日常

雑記
09 /26 2016


「デブはゲイのモテ王道だよ」

かれこれ5年ぐらい前に言われて衝撃を受けた言葉。
当時「太ってるからモテないんだよなー」とダイエットに精進しようとしつつ、挫折を繰り返していた。
実際のところ、それよりずっと前からわたしの体に性的な興味を示してくる人はいた。
なるほどデブ専という人は一定数いるんだなとは感じていたのだけれど、まさか「王道」とまで言われているとは。

そうはいっても、個人的には「王道」ってのは言い過ぎで、何だかんだでアスリート体型やマッチョが最上級にモテるのが真実だと思う。
メインストリームではないものの、ゲイの中の1ジャンルとして、それなりに需要があるってことじゃないだろうか。
ちなみに10数年前はデブ専っていうと、オジサンゲイもしくはオジイサンゲイが多かった気がするのだけれど、最近は若ゲイにも少なからずいる。
‥‥実をいうとうちの彼氏もそれである。

イモ顔で太ったおっさんが「自分はモテる」ってなことを言うと、まあ当然「ハァ?」って反応もあるのだろうけど、ゲイの世界では別におかしな人扱いはされない。
ところがノンケの界隈だとものすごく特殊な趣味扱いされるようで、数年前に起きた東京の木嶋佳苗や鳥取の上田美由紀の連続殺人事件の時、彼女たちが太った女性ということに世間の関心は向かった。
美人でモデル体型の女性が次々と男を騙して殺したとしても、ああいう騒がれ方はしなかっただろう。
正直、太った女性に騙されたからっていうので、被害者の男性たちまで変な目で見られたり、バカにされるような報道されるのはどうなの?と思ったけれど、彼女たちのインパクトがいかに強烈なものだったのかがうかがい知れる。

実際はノンケの世界でも、男女問わず太った人が好きな人は一定数いるんじゃないだろうか。
ただデブ専ゲイのように大っぴらに出来ず、変態扱いされる可能性が高いのかもしれない。
昔の裸婦画なんて太っている女性が多いし、ああいう体型の女性が好かれている時代もあったんだろう。
そこまで変態扱いされるいわれもないんだけどね。

わたし自身でいうなら、基本的には細い男の子が好き。
あと、筋肉質な男性もとてもセクシーだと思う。
太ってる人はそんなに好きじゃない。
でも、最近はちょっとムチムチした体型の人も何となくエロく見えるようになってきた。
中年にさしかかって、ちょっとムチムチしてきた男性って、不思議ないやらしさがあるんだよね。

ただ、どんな体型であれ一番大切なのは「健康」だから、ノンケゲイ問わずデブ専のみなさんには、パートナーが健康のためにダイエットするのを、絶対に止めないで欲しいと思う。
それが愛情ってもんですよ。

去り行く夏と虫の声

雑記
09 /13 2016


ついこの間までうだるような暑さだったかと思えば、朝晩はそれでも涼しくなり、虫の声が聴こえる季節になった。
田んぼのわきにはヒガンバナが咲いているし、季節の移ろいって本当に早いんだなって感じる。
空の色もぐんと濃くなり、夏の空よりは何となく冷たいような感じがして、ちょっと淋しいような気分になる。

わたしは秋生まれなので、夏の終わりは「もう〇〇歳も終わりだな」と毎年思い始める時期でもある。
今年でいうなら、「33歳ももうすぐ終わりか‥‥」という風に。
いつの間にか30代も半ばだ。
季節の移ろいと同じで、歳をとるのもあっという間だ。
何だかしんみりしちゃうね。

いつの間にか青春の頃は、懐かしい思い出の日々になった。
かつては昨日のことのようであったけれど、大人になってしまうとものすごく遠く感じてしまう。
おそらく今の日々も、もっと歳をとればはるか遠くにあるような、感傷的な思い出の日々になるんだろう。

過ぎ行く季節は淋しいのだけれど、来たり行く季節もまた、楽しみがある。
夏は蛍の美しさに感動したように、秋には鈴虫の鳴く声に安らぎを覚える。
人生も同じだ。
節目ごとに、あるいは日常の過ぎ行く日々のなかに、新鮮な感動や発見、よろこびがある。
一つ一つの小さな積み重ねが、生きていく楽しみであり、喜びにつながる。

露呈した「地獄」の社会

雑記
09 /03 2016
10日も前のニュースで、それ以後続報も出ているのだけど、備忘録もかねて第一報。



高畑淳子の息子、俳優・高畑裕太容疑者を強姦致傷容疑で逮捕


群馬県警捜査1課などは23日、前橋市内のホテル客室で40代の女性従業員に乱暴するなどしたとして、強姦致傷容疑で俳優の高畑裕太容疑者(22)=東京都渋谷区=を逮捕した。行為については認めているが、計画性については「企ててはいない」と否認しているという。
 逮捕容疑は23日未明、前橋市内のホテルで女性従業員の手足を押さえつけるなど暴行した上で乱暴し、右手親指打撲などの傷害を負わせた疑い。

 県警によると、高畑容疑者は映画の撮影のため、群馬県内にいた。前日は「映画スタッフと飲酒した」とも話しているという。23日午前3時32分に被害者の知人男性から110番通報があり、捜査を開始。同午後1時40分に逮捕した。
 高畑容疑者は女優・高畑淳子の長男で、12年に俳優デビュー。15年のNHK連続テレビ小説「まれ」で、主人公の同級生を演じて注目され、現在放送中のTBS系連続ドラマ「仰げば尊し」やバラエティー番組に出演している。27、28日の日テレ系「24時間テレビ39 愛は地球を救う」では番組パーソナリティーを務めることが発表されているほか、同番組内のドラマスペシャル「盲目のヨシノリ先生~光を失って心が見えた~」にも出演。来年1月には舞台出演も決定していた。




この事件の第一報のほとんどが「高畑淳子さんの息子」として報道された。
22歳にもなる長男が起こしたことであり、高畑淳子さん自身には関わりがないのに‥‥という意見もTwitterではたくさん見られたし、ネットニュースやテレビ、雑誌などでも同じようなコメントはあったように思う。
張本人である高畑裕太自身がそれほどの知名度もなく、圧倒的に高畑淳子さんが有名である以上、こういう注目のされ方は多少仕方ないのかもしれない。
親としてどういう教育してきたんだと思う人がいるのも、わからないでもない(未成年でもないのにちょっと‥‥と思うけど)。

その後、高畑淳子さんが記者会見を開いた。
会見では複数の記者から、かなりきわどい質問も受けた。
「女性に対して危うい部分はあったか」
「性欲が強いとか、性的嗜好がおかしいということはあったか」
一体、母親である高畑淳子さんが、息子の性生活に関して何を知っていたというのだろうか。
本人ならいざ知らず、加害者の家族にすぎないのに、どうしてこんな辱しめを受けなければならないのか。

マスコミが高畑裕太の「性的嗜好」に触れたのは理由がある。
それは被害者の女性が、40代の女性だったからだ。
22歳の男が、40代の女性に性的な興味を覚えたことに、下世話な興味を抱いたのだ。
ネット上には被害者の女性が、「40代女性とは思えないほど美人だった」という憶測が流れたり、どこから見つけてきたのか、その真贋はわからないけど被害者女性の写真まで出回った。
あるいは高畑裕太が熟女好きだのマザコンだのという、下卑た憶測も流れた。
被害者のプライバシーは絶対的に守られないといけないものだし、被害者がいわれなき中傷をされるのは絶対に許されることではない。
下世話な関心で、いやらしく注目されるなんて被害者に対して絶対にやってはいけないことなのに。
なぜ世間全体によるセカンドレイプがまかり通ってしまうのだろうか。

高畑裕太が性的な関心が強く、共演者の女性芸能人たちを誘っていたという話も伝わっている。
女優でタレントの橋本マナミもその一人だった。
高畑裕太の誘いを断ったエピソードも、テレビで語っていたという。
同じ番組に出ていた俳優の梅沢富美男が、橋本マナミに対して
「お前が一番悪いと思った」
「ヤラせてもよかったんじゃないの?」
と、発言したという。
強姦致傷の犯人だよ?強姦された上に怪我までさせるような男だよ?
橋本マナミが危険な目に遭う可能性だってあったかもしれない?って思わないのだろうか?
大体、セックスするかどうかは本人がしたいかどうかでしょ。
したくない人と、どうしてしなきゃいけないの?
根本的には「セックスワーカーは性の防波堤として必要」みたいな意見と同じで、凶暴な男の性を受け止め犠牲になれって言ってるようなもんだ。
コンクリートの壁じゃなくて、人間なんだよ。
まともに暴力ぶつけられたら壊れちゃうよ。
おそらくは高畑裕太が逮捕後に語っていたという「衝動を抑えられなかった」という言葉を受けて発言したのだと思う。
でも、性欲と性暴力衝動は根本的に違う。
性暴力をふるう人たちは、セックスがしたいから、性暴力にはしるわけではない。
相手の尊厳を踏みにじり、暴力で支配したいからだ。
性暴力関連の事件が起こると、「風俗を活用すれば」という意見も出てくる。
性暴力をふるう人は、お金を払ってセックスしたいのだろうか?
風俗を利用するにしても、お金を払って性暴力をふるうだけではないだろうか?
性暴力や性犯罪の「抑止」のために、女に生贄になれという。
人権もなんにもない。

謝罪を求められ、自身のキャリアも危機にさらされるのは母という「女」。
下世話な好奇心を持たれ、あらぬ中傷を受ける被害者も「女」。
ヤラせてやればよかった、犠牲者になれと批判されるのも「女」。
責められているのは女たちだ。
事件を起こしたのは「男」だというのに。
そして、男が女を踏みにじる事件なのに。
女にとって、何という地獄なんだろうか。

高畑裕太は、もしかしたらわたし自身かもしれない。
あるいは梅沢富美男も、わたし自身かもしれない。
日本中の男たちが、高畑裕太であり梅沢富美男なのではないか。
もちろん、セクなんて関係ない。男である限り。
この世の中を、女たちにとって地獄の社会に作り上げたのは、他ならぬ男たちだからだ。

誰かにとっての地獄は、他の誰かにとっても地獄になりうる。
男たちはそれに気づかなくてはいけない。

和江さん

30代シスジェンダー(?)ゲイ。

日本の片隅にひっそりと暮らしている。
お仕事は福祉系。


マドンナが大好き。


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