たまには元教師らしく

シリアス
07 /29 2017

少し前の記事になるが、以下の記事を引用したい。


安倍政権のLGBT差別教育は相変わらず...「異性への関心」指導要領の改訂を拒否、文科相は"LGBTは科学的に認められてない"


リテラ2017年5月6日 18時00分


 国内最大の性的マイノリティへの理解を深めるためのイベント「東京レインボープライド2017」が、今年も東京・代々木公園などで開催されている。このイベントは、〈性的指向や性自認のいかんにかかわらず、差別や偏見にさらされることなく、より自分らしく、各個人が幸せを追求していくことができる社会の実現を目指す〉ものだが、一方、安倍政権の政治家たちの間ではいまだ差別や偏見が蔓延っている。



 それを象徴するのが、今年改訂された教育指導要領だ。これまでの小学校の学習指導要領では、思春期の変化として〈異性への関心が芽生える〉ことが〈だれにでも起こる,大人の体に近づく現象〉として理解できるようにすると記述。中学校学習指導要領(保健体育)でも〈異性への関心が高まったりする〉と書かれていた。そこで、今回の改訂にあたって、この記述をなくして性的マイノリティについて盛り込むことを求めるパブリックコメントが数多く寄せられていた。



 だが、文科省は「LGBTを指導内容として扱うのは、保護者や国民の理解などを考慮すると難しい」として却下。新学習指導要領でもこうした記述が残ってしまったのだ。



 2017年度の高校教科書の一部では、はじめて「LGBT」という言葉が登場したが、このように小学校から「異性愛が普通」と教えていては、多様な性への理解を深めることは難しい。文科省は昨年、性的マイノリティである児童・生徒への教職員の対応を手引きとして発行したが、まずは授業内で多様な性のかたちがあることを周知することのほうが先決だろう。



 しかも、この文科省の判断に輪をかけて酷いのが、担当大臣である松野博一文科相の認識だ。4月24日に開かれた衆院決算行政監視委員会では、民進党の西村智奈美議員がこの学習指導要領改訂の問題を取り上げ、学習指導要領にLGBTに関する内容を盛り込むことを求めたのだが、このときの松野文科相の答弁は、唖然とさせられるものだった。



「LGBTに対する科学的な知見が確立していないということがございます。それがなかなか授業において先生方が合理的な説明の元に進められない、問題があるかと思います」



 LGBTの科学的知見が確立していないから授業では取り上げるのは問題がある──。この答弁に対して、西村議員は「性的指向、性自認にかかる悩みをもっている子どもたちは、そうではない子どもたちに比べると自殺のリスクが6倍高いとも言われている。そうしたなかでほんとうに科学的知見が確立していないということが学校でこのことに言及しない理由になりえるのか」と反論したが、まさにその通りだろう。



 たとえば同性愛の場合、先天的なものなのか後天的なものなのかという研究においても、科学的にははっきりとした答えはまだない状態だ。しかし、そうした「科学的知見」は、性的マイノリティの権利を認める上で必要なものではない。性的指向や性自認について学び、性にはさまざまなかたちがあることを知る。そうして多様性を認めることができる教育が求められているはずだ。



 だが、松野文科相は、教育現場において性的マイノリティの理解を深めることの重要性など考えていないのだろう。



 だいたい「科学的知見が確立されていない」というなら、文科省がつくった小学校高学年用の道徳教材「私たちの道徳」に、まったく科学的根拠や史料的裏付けのない「江戸しぐさ」を載せたのはどう説明するのか。



 結局、安倍政権は平等や人権、多様性などの教育を否定して、戦前的価値観を復活したいだけなのである。



 実際、松野文科相は教育勅語については「教材として用いることは問題としない」と発言している。教育勅語はそもそも家父長制、男尊女卑を前提にしたもので、男は男、女は女という性別によって役割が固定されている。当然、性的マイノリティは排除された世界のものであって、こんなシロモノをいま「問題なし」と言うのである。松野文科相は日本会議国会議員懇談会のメンバーだが、「LGBTについて授業でふれることはアウト、教育勅語は無論OK」という極右的価値観でものをいっているにすぎない。



 いや、これは松野文科相だけではなく、安倍政権を覆う認識だ。昨年の参院選の公約で〈社会全体が多様性を受け入れていく環境を目指します〉などと表向きはLGBTフレンドリーを装ったが、内実はまったく違う。



 事実、現行憲法では家族のなかでの個人の尊重が謳われている24条を、自民党の憲法改正草案では〈家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない〉としている。ここで自民党がいう「家族」とは夫がいて妻がいて子どもがいるという、何かと極右が口にする「伝統的な家族」であり、「個人よりも家族」という考え方といい、真っ向から多様性を否定する内容だ。



 そうした考えを裏付けるように、2015年3月に開かれた自民党の「家族の絆を守る特命委員会」の会合では、渋谷区の同性パートナーシップ条例に対して疑義が呈されただけでなく、複数の議員が同性愛について「考えるだけでぞっとする」などと発言し、しかも場内には笑いが起きたという(朝日新聞2016年11月20日付)。



 昨年、「レインボープライド」の会場を視察に訪れた稲田朋美防衛相(当時は自民党政調会長)は、「私自身は男らしさとか女らしさということを言ったことは今まで一度もない」と嘯いたが、本サイトではいかに稲田氏が性別による押し付けを肯定する発言をし、さらには"男女は支配者/被支配者の関係であるべき""異性愛を中心とする法律婚を守ることが重要で、同性婚は法的に認めてはならない"とする主張を行ってきたかを紹介した。



 今年も、このイベントが性の多様性について多くの人が理解を深めるきっかけになってほしいと願うが、同時に、そうした動きに対して足を引っ張るどころか、性にもとづく差別や偏見を助長し、個人の権利を認めない安倍政権の実態にもNOと言っておきたい。

(編集部)   


「一体いつになったら、自然と異性に惹かれるようになるんだろうか?」

10代の頃、既に同性に強い性的な感心と、淡い恋愛感情を抱きつつ、いつかは異性を愛するようになるのだと、漠然と思っていた部分はあった。

ネットの普及もまだで、社会全体の同性愛に対する理解も不十分な時代だった。

性教育の必要性が語られていて、小中学校でも性教育の授業はあったのだけれど、「異性に対して性的に惹かれるのは自然なこと」という言葉は、本の中にもあったし、教師の口からも聞かれた。

「同性に惹かれたり、性に関心がないのも自然なこと」という言葉に巡りあうことはなかった。

20年以上経った今となっては、まあ時代のせいだよなぁとは思える。

わたし自身はどちらかというとあっけらかんとした性格だったこともあって、同世代のゲイに比べたらそれほど深刻に悩んでいたわけでもなさそうなのだが、それでも「自分は何かヤバい病気なんじゃないか」という不安も少なからず感じていた。

若い世代のLGBTsと実際に話をしたり、ブログやTwitterなどを見ると、さすがにわたしの世代よりは情報に恵まれている。

インターネットやテレビの情報だけでなく、図書館などである程度きちんと解説した本に出会った人もいる。

それでも、学校で教えてもらったという話はあまり聞かない。

先進的な学校や先生方が触れていた例はたくさんあって、アクティビスト団体が学校向けに講演会も行っている。

身近な例だと、地元のLGBTsサークルも数年前から、学校で生徒さんたちや教職員に向けて講演会や研修も行っている。

おそらくは全国的にじわじわと広がりつつある流れなのだろうけれど、ただ全体で見ると、残念ながらまだ「一部」というレベルではないかと思う。

かなり前のことになるが、わたし自身の経験も書いておきたい。

2005年に高校の常勤講師をしていた頃、配属先の高校がMtFトランスジェンダーの講師を招いて性教育講演会をしていることかあった。

あくまで性教育講演会であり、セクシュアリティに関する内容でもなく、「10代の性」について男女問わず抱えるであろう悩みや困りごとに関する内容だった。

ただ、講師の方がセクシュアリティに踏み込んだ話をしたことについて、教職員はおろか生徒たちからも反発があった。

言葉は悪いのだけど、何の予備知識もない生徒たちからしたら「いきなり変態が学校に来て、下ネタを話に来た」という認識だったのだろう。

性自認や性指向といった話をすることは、これほどまでに難しいのかと23歳の駆け出し教員だったわたしは思い知らされることになった。

さすがに当時からしたら10年以上経っているし、特に数年前からのLGBTブームは様々な問題をはらみつつも、世間の認識に大きな影響を与えていると思う。

社会は確実に変化してきているだろう。というより、そう願わずにはいられない。

ただ、そういう人々の取り組みや積み重ねも、激しいバックラッシュが起きてしまうと、一気に叩き潰されてしまう。

今回、指導要領に反映されず、「異性に惹かれるのは自然なこと」と書かれてしまったことは、やはり痛恨の極みであると感じる。

次回の改訂には必ず盛り込まれるようにする運動も大切だろうし、また、今の指導要領で学ぶ子どもたち、2020年以降の指導要領で学ぶ子どもたちにどう伝えていくかも課題になる。

最後に学校現場を経験したわたしの個人的な感想なのだが、仮に次回の改訂で多様な性について指導要領に盛り込まれ、2030年代から施行されたとしても、それがゴールではないと思う。

教職員に対して理解を深め、意識の変革を求めるのはかなり難しいことだからだ。

これは教育現場に限らず、おそらくはどの業界にもいえることなのだろうが、基本的に変化を嫌い恐れ、慣例的に行われてきたことを変えることに抵抗を示す人は多い。

これまでいくつかの仕事を経験してきたが、教師は特にその傾向が強いように感じられる。

年配の先生方に限らず、若い先生方も、「自分たちが受けてきた教育」を子どもたちにすることがよいことだと信じて疑わない人が少なくない。

いざ指導要領が変わっても、現場で軽んじられてしまったらどうしようもない。

課題は山積みだ。

でも、「少しでも次の世代にとって生きやすい世の中になるように」っていう気持ちだけは保ちつづけたいよね。

何も変わらない世の中なんて、面白くないから。

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若者たちは出会いたい

雑記
07 /27 2017

もう10年以上前のことだけれど、「ゲイの世界は洋服や家電製品を選ぶように人間関係も作られていく」と言った人がいた。

当時わたしは20代前半で、長くつき合ってきた彼氏と別れた直後だった。

周囲にゲイの友達もいなくて、30歳の彼が言うことの真意がよくつかめなかった。

その後mixiやらメンミクやらでゲイの友達(イロありなし問わず)作りをしていき、前の彼氏とのつき合いや別れを経験し、30も手前になる頃には彼の言葉が身にしみて理解出来るようになった。

初対面からの、値踏みのしあい。

「友達募集」といいつつ、容姿が好みのタイプとしか会わない。

最初にリアル(SNSで繋がっていた相手と実際に会うこと)するときは、お互いの容姿やスペックなど、カッコよさを値踏みしあい、品定めしあい、仲良くなったら得か損かを勘定にかける。

そしてどうしても頭の片隅に、色恋に発展するかどうかを考えてしまう。

恋人にせよ、友達にせよ、そういう風に人間関係が選ばれ、築かれていく。

掲示板やSNSがカタログなら、リアルで会うことはショールーム。

まさしく洋服や家電製品のように人が選ばれ、いらないものは切り捨てられていく。

みんなそうだから、ある程度お互いさまではあるのだけど、人気者とそうでない人は周囲にいる人たちの数が違うし、おのずとカーストが形成されてしまう。

そういう独特のいやらしさや残酷さを感じながらも、自分自身もついついそうやって人間関係を選択してきた。

「ああ、ゲイの世界って‥‥」

30手前になった頃、わたしもそんな風に思うようになった。

冒頭のゲイの人が言っていたのと、同じ年齢になっていた。

前の彼氏と別れて以降、「SNSと掲示板」以外の手段で友達関係を作るようになったり、イベントごとにも参加するようになって、考えも変わっていった。

優しい人にもたくさん出会うことが出来たし。むしろ人情に厚い部分もある。

ただ、若い子を見たりすると「あー値踏みしあってんな」と思うことも多い。

そりゃそうだよね。みんな「一に出会い、二に出会い」。

とにかく出会いを何よりも欲しているのだから。

色恋も大事だけど、みんなゲイの人間関係が欲しくて仕方ない。

だから出会いたい。

80年代前半の生まれのわたしと、90年代半ば生まれの若者では育ってきた環境も違う。

中高生ぐらいからSNSを駆使してゲイ同士出会ったりした人もたくさんいるだろうから、出会いに対する激しい渇望はないかもしれない。

またある程度、おとなたちのセクシュアリティに対する理解が進んできたりして、死ぬ気で隠さなきゃいけないっていう感覚も薄れてきている‥‥かもしれない。

同じ秘密を抱えた人と会いたい!っていう切実な欲求は、わたしたちほどではない‥‥がもしれない。

「かもしれない」ばかりなのは、大部分はそんなにわたしの青春時代と変わっていないと思うからだ。

切実に「出会いたい」と思うからこそ、ごく自然体の人間関係を築けない。

そういう若い人たちは、残念ながら少なくないと思う。

傷つく人たちは、これからもいるだろう。

世の中全体が変わらなきゃね。少しでも、生きやすい世の中になるように。

そういうのが、大人世代のつとなんだと思う。

愛と渇望、自分を取り戻す日

雑記
07 /14 2017

以前このブログに頻繁に登場していた「職場のKくん」と久しぶりに話す機会があった。

彼もわたしも「職場」はとっくに辞めているので、正確にいうと「かつて同じ職場だったKくん」なのだけど、さすがにまどろっこしいし、よそよそしいので「親友Kくん」と呼びたい。

親友という割に実は3年ぶりに会ったのだけど、実はわたしって人間関係が非常に希薄であり、結構人と会うのが億劫になりがちだ。

SNS時代の人間関係作りについて批判的な人も多いのだが、わたしなんかはSNSがなきゃ誰とも連絡取らず、ひたすら孤立していきそうなのでSNS時代には感謝しなくてはならない‥‥などという書き方をしたら大げさで、ようはLINEやFacebookのおかげで古い友達とも切れずにすんでるってだけなんだけどね。

そこらへんの話はまあどうでもよくて、どうでもいい割に長い前置きになってしまったのだけど、久しぶりに話したKくんは、相変わらず恋に仕事に悩める男だった。

相談に乗っているつもりで、ついつい自分のくだらない話をしてしまうわたしも、相変わらず空気の読めないオカマだった。

でもKくんの場合、いい意味でも変わってなくて、自分のことに関してはトコトン真面目に考えて、考えすぎて悩んでる。

30代も半ばになれば、みんなどこかしらあっけらかんとテキトーになってしまうのだけど、それが出来ないんだよね。

心配になる部分でもあり、またとても好ましい部分でもある。

彼のそういう真面目さやお堅い部分、かつては自身だけじゃなくてわたしにも向いていた。

かつてわたしも、「刹那の情事を楽しんでいた」時期もあったのだけど(単純に手当たり次第男を食い散らかしていた)、その時期は随分と批判も受けたわけだ。

「今思うと、あの頃の和江さんって本当に孤独で、愛されることを欲していたんだなって思うんですよ。今になってやっと、気持ちがわかるようになって」。

Kくんがポツリと言った。

うーん、批判されてた頃は口煩くて不粋な人ねぇなんてことも思ってたけど、これはこれで美化しすぎですよとは思う。

でもどこかで「誰かに愛されたい」気持ちはあって、渇望するような感覚はあったんだろう。

だからこそ「刹那の情事」を刹那と割りきれず、引きずっちゃうことも多かったし、恋愛しても上手くいかなかった気がする。

ただ孤独だの愛だのという以前に、男を知るのが楽しくて仕方なかったってのが、当時のわたしだったと思うのだけれど。

そして、「孤独」と「愛されたい」は今まさにKくんが感じていることじゃないかな?という気がした。

そこらへん友人であるところのわたしには、埋められることが出来ないのではあるけど。

「いつかふっ切れる日がくるわ。孤独は辛くなくなるし、愛にすがりつくこともなくなるわ。本当にね、ふっ切れるのよ。それがいつの日かはわからないけれど‥‥」

アドバイスにも気休めにもならないとは思いつつ、こんな言葉をかけた。

実際のところ、前の彼氏とのつき合いがなかったら、わたしもこんな心境にはなれなかったかもしれない。

まさに愛という名の支配であり、自分の人生を奪われてしまった感覚。それは孤独よりずっと辛いものだった。

ふっ切れたという言葉を使ったけれど、わたしがわたしの人生を取り戻した瞬間でもあった。

きちんと自分と向き合う瞬間があったからこそ、今の彼氏とつき合うことも出来たし、いい関係を築くことも出来た。

ただ、こういうのって人生訓よろしく解説したところで伝わらない。

Kくんも頭では理解しつつ、悩みから抜け出すには何かきっかけがないと難しいと思う。

相変わらず力になれないわたしではあったけれど、「楽になりました」とねぎらってくれたKくん。

そんな彼の真面目さや優しさが、愛おしいような、切ないような。

4月の情景

雑記
04 /24 2017


真夏のような暑い日と、冬が戻ってきたかのような寒い日が繰り返して、体調も気分も少し崩れぎみ。
年度がわりは職場も多少ゴタゴタしたものの、もう4月も下旬だ。
忙しいせいか、自分が歳くったせいか、月日がたつのが早く感じられる。

真新しいスーツを着た新社会人を見て、初々しくていいなあと思いつつ、そういう風に思えない時もあったよな‥‥って思い出す。
11年前、初めて無職になった時は見るのが辛かった。
その後、今でいうところのブラック企業に勤めて再び無職になったり、どん底は何回か味わっている。
すべて順調かっていうと、そうじゃないけど、どうにかこうにか這い上がってきた。

4月は少しセンチメンタルな季節だ。

25年前の「サヨナラ」

雑記
03 /20 2017


流れる季節に君だけ足りない
はぐれた心の足跡を探す
カバンにつめた悲しい幸せ
遠くへ行くほど君を思い出す

「サヨナラ」/GAO

春は別れの季節、というわけで人事異動の発表なんかもあり、ちょっとセンチメンタルな今日この頃。
念のために断っておくと、彼氏とは相変わらずラブラブしてます。笑

ちなみにこの曲を歌っていたGAOさんは、現在はFtMとして生活されているようです。
そのせいかどうか、どことなくこの歌に出てくる「二人」がLGBTsのカップルのようにも思えます。
現在ほど同性愛やトランスが、一般的に認知されていないバブル前後の日本で、お互い夢を追いながら愛し合っていたゲイやレズビアンの、あるいは片方がトランスのカップル。
若かった二人のどちらかが、夢を諦めなくてはいけなくなり、ノンケとして生活することを選んだ。
そんな情景がどことなく浮かんでもきます。

暗闇ではなくて

雑記
02 /21 2017

ブログを更新しない間に、アメリカでトランプが大統領になったり、好きだった俳優の成宮寛貴くんが芸能界引退したり、世間的にも色々あった。

一つ一つ思うところがあって、記事にしていきたいと思いつつ何となく億劫で、また思うところが多すぎて言葉にならなくて、ついつい更新から遠ざかってしまったのだけど。

トランプの就任以降のゴタゴタで感じることの一つは、世の中ってのはいとも簡単に「逆行」しちゃうってことで、反動的な力はすさまじく強いってことだ。

Twitterでキャシーさんが言ってたけど、権利を勝ち取るための闘いはものすごい労力がいるけど、失うのは一瞬ってこと。

そういうのが、ものすごく身近に感じられる時代になってしまった。

「絶望してる暇なんてないでしょ?」

1月のWomen's Marchでマドンナはそう言った。

彼女の言葉は多くの人を勇気づけ、奮い立たせた。

でもきっと、大統領選以降マドンナだって一度は絶望したり、涙を流したことだと思う。

彼女のスピーチからは力強さや怒り、愛と同じぐらい悲しみが込められていたような気がした。

アメリカだけじゃない。世界中のあちこちが、何か得体の知れない闇に包まれていくのを感じている。

その中でかすかな光を探し求め、希望につなげていかなくちゃいけない。

書きたいことはまだあるのだけど、今日のところはこのへんで。

34歳という年齢

雑記
11 /28 2016
もう1ヵ月以上も前なのですが、10月18日に34歳になりました。
2005年の5月にこのブログを始めた頃は22歳と7ヵ月だったわけで、干支が一回りするぐらいの間、続けてくることが出来たのは、何となく感慨深いものもあります。
時々このブログを読み返すこともあるのですが、我ながら若いなぁー、バカだなぁーと思うことも書いてありますし、逆にずいぶん繊細な感覚もあったんだな‥‥と思うこともあったり。
文章に残しておくことって、結構大切なのかもしれません。
その時々に何を感じていたか、振り返ることは今を生きるヒントになると思います。
そして、自分が若い頃に何をどのように感じていたかというのを、今の若い世代が、同じことをどう感じるか比較してみるのも興味深いでしょう。
特にセクシュアルマイノリティ、LGBTs関連ではここ10年間で大きく世間の認識は変わったと感じています。
一方で、大人たちの感覚は必ずしも変化していないようにも思われます。
やはり次世代である若者たちの感覚が、一番気になるところです。

ちなみに、わたしは1982年生まれですが、今年こんな本も出ています。

「1982 名前のない世代」


少年期から青年期、大人になるまで正直変な注目をされることも多かった世代であったわたしたちの世代を、総括したような内容といえるかもしれません。
本は俯瞰的に世代全体を書いていますが、自分自身はどうだったのか?を振り返る際、やはり自分が書いてきたものが一番の資料です。
そして忘れてはいけないのは、若者たちには若者自身の見つめてきた世界があり、その蓄積があるということ。
その蓄積があって、わたしたちの世代とは異なる世界の捉え方をしているということを理解しなければいけないと思うのです。
34歳、もう中年という年代に足を突っ込んでいる今、この感覚を大切にしたいと思う今日この頃です。

日常はくすんでるぐらいでちょうどいい

雑記
10 /12 2016




旅行に出るっていうのはそもそも「非日常」なのだけれど、特に田舎に住む人にとって大都市に旅行することはものすごい非日常を味わう。
元日の初詣みたいな人数の人たちが街に溢れかえっていることも、周りのビルが高いことも、どこまでいっても街が続いていることも田舎の人にとっては不思議な光景だ。
ガラスばりのビルに入っているカフェや、美術館のようなブティックのショーウィンドウはいつ見ても心ときめくものだし、あるいは戦前からあるようなレトロモダンな建築物や老舗の店が今でもきちんと残っているのもまた都会らしい風情だ。

一言で田舎とはいっても、例えば県庁所在地のように人口数十万が住んでいる市の中心部と、本当に田んぼしかない郡部では住んでる人の感覚も変わってくる。
「郊外」という繁華街でもなきゃ田舎でもない地域もある。
ただどの地域に住んでいる人であれ、田舎の人が都会を旅行して、帰りの道すがら思うことは、おそらく共通していると思う。
「ああ、明日からまたしみったれた日常が始まるのだ」と。
キラキラした都会に比べると、田舎は街も野山もくすんで見えてしまう。
花火大会が終わった夜のような淋しさが胸にただようのだ。

うんと若い頃、中高生の頃から「都会に出る!」は大きな夢だった。
大学進学がそのチャンスだったけれど、結局田舎の大学に進学することになった。
就職は都会に出たかったけれど、大学生も後半になると地元に戻りたいという気持ちも芽生え始めていた。
結局、卒業しても田舎暮らし。
生まれてから34年間、都会暮らしは出来ずにきているし、よほどのことがない限り都会に出るつもりもない。

ガラスばりの高層ビルを歩いていると、無理をしてでも都会に出ていたら‥‥って考えることはある。
でも思うんだけれど、結局適応できずに逃げ帰ることになっていたような気もする。
たらればで人生考えても、不毛だとは思うのだけれど。

一つだけわかることがあるとするなら、キラキラした街並みも、「日常」になってしまうと、それは感動的なものではなくなる。
田舎に住む人の日常はくすんでるかもしれないけれど、だからこそ道ばたに咲いている花にふとした安らぎや感動があったりするものだし、季節の移り変わりに発見があったりする。
そんな大層なものではないのだけど、そういうところにも楽しみを見いだすことも可能だ。
たまに都会に出れば、一つのアミューズメントパークになるし、大きな刺激を得ることも出来る。
キラキラした日常を過ごす人たちが田舎に行っても、観光地を歩くのは刺激になると思う。
でも何の変哲もない田んぼ道を歩いても、何か感慨があるとも思えない。
都会から来た人で、そういうところで新鮮な感動を覚えるような人は、ものすごく感性が豊かな人じゃないかな。

SNSを見れば、都会の人たちは海外旅行したりして、キラキラした非日常を味わったりしている。
わざわざ田舎に来て、くすんだ「非日常」を味わう必要もないだろうし。
日常なんて、多少くすんでる方が非日常を楽しむ幅は広がる。
そして日常から何かを感じる感性が、日々の生活を豊かにする。

デブゲイな日常

雑記
09 /26 2016


「デブはゲイのモテ王道だよ」

かれこれ5年ぐらい前に言われて衝撃を受けた言葉。
当時「太ってるからモテないんだよなー」とダイエットに精進しようとしつつ、挫折を繰り返していた。
実際のところ、それよりずっと前からわたしの体に性的な興味を示してくる人はいた。
なるほどデブ専という人は一定数いるんだなとは感じていたのだけれど、まさか「王道」とまで言われているとは。

そうはいっても、個人的には「王道」ってのは言い過ぎで、何だかんだでアスリート体型やマッチョが最上級にモテるのが真実だと思う。
メインストリームではないものの、ゲイの中の1ジャンルとして、それなりに需要があるってことじゃないだろうか。
ちなみに10数年前はデブ専っていうと、オジサンゲイもしくはオジイサンゲイが多かった気がするのだけれど、最近は若ゲイにも少なからずいる。
‥‥実をいうとうちの彼氏もそれである。

イモ顔で太ったおっさんが「自分はモテる」ってなことを言うと、まあ当然「ハァ?」って反応もあるのだろうけど、ゲイの世界では別におかしな人扱いはされない。
ところがノンケの界隈だとものすごく特殊な趣味扱いされるようで、数年前に起きた東京の木嶋佳苗や鳥取の上田美由紀の連続殺人事件の時、彼女たちが太った女性ということに世間の関心は向かった。
美人でモデル体型の女性が次々と男を騙して殺したとしても、ああいう騒がれ方はしなかっただろう。
正直、太った女性に騙されたからっていうので、被害者の男性たちまで変な目で見られたり、バカにされるような報道されるのはどうなの?と思ったけれど、彼女たちのインパクトがいかに強烈なものだったのかがうかがい知れる。

実際はノンケの世界でも、男女問わず太った人が好きな人は一定数いるんじゃないだろうか。
ただデブ専ゲイのように大っぴらに出来ず、変態扱いされる可能性が高いのかもしれない。
昔の裸婦画なんて太っている女性が多いし、ああいう体型の女性が好かれている時代もあったんだろう。
そこまで変態扱いされるいわれもないんだけどね。

わたし自身でいうなら、基本的には細い男の子が好き。
あと、筋肉質な男性もとてもセクシーだと思う。
太ってる人はそんなに好きじゃない。
でも、最近はちょっとムチムチした体型の人も何となくエロく見えるようになってきた。
中年にさしかかって、ちょっとムチムチしてきた男性って、不思議ないやらしさがあるんだよね。

ただ、どんな体型であれ一番大切なのは「健康」だから、ノンケゲイ問わずデブ専のみなさんには、パートナーが健康のためにダイエットするのを、絶対に止めないで欲しいと思う。
それが愛情ってもんですよ。

去り行く夏と虫の声

雑記
09 /13 2016


ついこの間までうだるような暑さだったかと思えば、朝晩はそれでも涼しくなり、虫の声が聴こえる季節になった。
田んぼのわきにはヒガンバナが咲いているし、季節の移ろいって本当に早いんだなって感じる。
空の色もぐんと濃くなり、夏の空よりは何となく冷たいような感じがして、ちょっと淋しいような気分になる。

わたしは秋生まれなので、夏の終わりは「もう〇〇歳も終わりだな」と毎年思い始める時期でもある。
今年でいうなら、「33歳ももうすぐ終わりか‥‥」という風に。
いつの間にか30代も半ばだ。
季節の移ろいと同じで、歳をとるのもあっという間だ。
何だかしんみりしちゃうね。

いつの間にか青春の頃は、懐かしい思い出の日々になった。
かつては昨日のことのようであったけれど、大人になってしまうとものすごく遠く感じてしまう。
おそらく今の日々も、もっと歳をとればはるか遠くにあるような、感傷的な思い出の日々になるんだろう。

過ぎ行く季節は淋しいのだけれど、来たり行く季節もまた、楽しみがある。
夏は蛍の美しさに感動したように、秋には鈴虫の鳴く声に安らぎを覚える。
人生も同じだ。
節目ごとに、あるいは日常の過ぎ行く日々のなかに、新鮮な感動や発見、よろこびがある。
一つ一つの小さな積み重ねが、生きていく楽しみであり、喜びにつながる。

和江さん

30代シスジェンダー(?)ゲイ。

日本の片隅にひっそりと暮らしている。
お仕事は福祉系。


マドンナが大好き。


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